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人気コラム

  • 2019.7.19

『BetterHalf』 General Manager/Photographer太下直哉

    海と町、文化のあるハワイで好きな仕事と家族に恵まれて     子どもの頃からJリーガーを目指し、高校時代は地元の京都パープルサンガユースでプレーしていました。でも現実は厳しく、その夢を断念。大学に入学後はサーフチームに入ってサーフィンを始めました。親がスキーで海外に行った経験があると聞き、海外に興味があったので、サーフィンを通して海外と繋がれたらと漠然と思ったからです。 実家の京都市は海まで遠かったので、仲間と毎週2回は夜中に出発し、3〜4時間かけて、夏は太平洋の伊勢へ、冬はビーチが雪化粧をする日本海へ行っていました。サーフィンはもちろん、仲間と […]

  • 2019.7.19

『おおきにおにぎり』 代表   川端高次

    海で気持ちを前向きにリセット サーフィンは夢の実現に不可欠です   サーフィンを始めて約20年です。初めてサーフィンしたのは高校卒業後、地元の京都から行った愛知県伊良湖の海でした。最初からショートボードで、思うように乗れないどころか、潮の流れが早くてグイグイと沖に流されてしまったんです。陸に戻るのに必死で、とにかくしんどかった。そして悔しかったというのが初サーフィンの思い出です。 でも、海に入ると何だか気持ち良くて、毎週末のようにサーフィンへ行くようになりました。冬でも通っていましたね。 サーフィンをして気付かされたことは、自然の力の凄まじさ。決して自然を […]

  • 2019.7.19

『JIMBO Restaurant』 オーナー   元島万起子

    海は、新参者の自分を受け入れてくれたハワイへ感謝するところ     うどん屋をオープンするためにハワイへ移住したのが1993年。翌年『ジンボ』を開店させ、仕事と子育てに追われ、気付けば十数年が経っていました。子育てが一段落した37歳のとき、サーファーの知人のレッスンを受けたらすっかりはまってしまいました。それ以降、毎朝子どもを学校に連れて行き、その後は海へ寄ってから仕事場へ、という生活に一変しました。 数年後、海で会う人たちに「今度の大会出る?」と誘われるようになり、出場してみたんです。大会では、普段は混雑しているワイキキのポイントが、その15分 […]

  • 2019.7.19

ブティック『Here.』 オーナー   カワムラ万葉

    夫と出会い、仲間は家族同然に  サーフィンは人生に欠かせません     思えば人生の半分はサーフィンをしています。2000年にハワイ大学へ編入してきたのですが、ハワイに来て初めて買ったものがショートボード。校内のショップで175ドルで買ったのを覚えています。 それから毎日海へ通う生活で、当時の友達はほぼ100%がサーファーでした。特に仲の良かった友人がサーフショップをオープンし、そこでボードを削るシェイパーをしていたのが今の夫です。その後、ますますサーフィン一色の人生になりましたね。 サーフィンは生活の一部なので1日の流れの中にあるもの。性格的に […]

  • 2019.7.19

写真家 / 映画監督 / クリエイティブディレクター平野功二

    ハワイの海は特別な時空間 人生にアイディアを与えてくれる       サーフィンを始めたのは高校時代です。新島に行ったときに見たサーファーがかっこよくて、その後は埼玉県から千葉県の九十九里浜まで電車で通っていました。 高校卒業後はミュージカルの劇団に所属し、1990年にアラバマ州の短大へ入学。卒業後は台湾の大学への進学が決まっていたのですが、途中ハワイに立ち寄ったんです。ハワイでサーフィンをしたら、すぐにハマりました。なんともいえない開放感を感じさせてくれたのです。時間的にゆとりがあったので、ハワイ大学に短期間通ったところ、奨学金で入学 […]

  • 2019.7.19

イベントプランナー / ウクレレプレイヤー デレック カミ

    ウクレレもサーフィンもアロハの心で人を喜ばすことができるツール   高校生の頃からボディーボードをしていて、海で出会うサーファーがあまり好きではありませんでした。 そんな私がサーフィンを始めたのは4年前。サンディービーチでボディーボードをしたときに大失敗をして背中を痛めたことがきっかけでした。病院で「手術をしなくては治らない」と言われ、手術を断り、カイロプラクティックに行くと「海水に入りなさい」と。それがフィジカルセラピーになると言うんです。言われるままに、大きなロングボードの上で横ばいになって両手でゆっくり水をかいてリハビリを始めました。徐々に状態が良く […]

  • 2019.7.19

Junya Sakurai LLC Founder / Hair Stylist櫻井 惇也

    環境意識の高まりも人生設計もサーフィンが大きく影響しています     昔からスノーボードをしていたのですが、夏にできることがないなぁと思って、24歳のときに始めたのがサーフィンでした。スノーボードに近い部分もありますが、波をつかまえたときにグングン加速するスピード感はサーフィンにしかない独特の感覚。それが楽しくて、すぐにはまり、東京から神奈川県の鵠沼海岸に通っていました。 ヘアサロンをアメリカでオープンさせるため、2015年にハワイへ引っ越してきました。日本では冬でもサーフィンをしていましたが、ハワイは暖かいし、海はきれいだし、海がすぐ近くにある […]

  • 2019.7.19

Hawaii HIS Corporation ハワイインバウンド支店長 高崎 雄介

    息苦しく感じていたハワイがサーフィンを通して大好きになった   アメリカの音楽やカルチャー、サーフカルチャーに憧れていた中学2年生のとき、サーフィンを始めました。友達と一緒に東京から電車に延々と乗って神奈川県の鵠沼海岸まで行っていました。当時は簡単に波のチェックなんてできませんから、着いてみたら「全然波がない!」なんてことも。でも楽しくて、高校を卒業するまで海に通っていました。 大学入学後はサーフィンから遠のいていたのですが、卒業後に仕事でオーストラリアに1年間住んだときに再開。1992年にHISのロサンゼルス支店に就職し、その後ラスベガス、サンフランシス […]

  • 2019.7.19

Photographer 桐生 真

    世の中で何があろうと変わらず  そこにある海に入ると安心できる   ボディーボードを始めたのは約20年前。1998年にハワイ大学の交換留学プログラムで、ハワイに来たことがきっかけでした。仲良くなったローカルの友達がサーファーだったので海に連れて行ってくれて、ショートボードを貸してくれたんです。人生初めてのサーフフィン。しかもショートボード。波に乗るどころかパドルすらうまくできず、サーフィンとはなんて難しく大変なものなんだと思い、1回で断念しました。 半年後、みんなで海で遊びたくてボディーボードを買い、ワイキキビーチに行きました。ショートボードと違って、すぐ […]

  • 2019.7.19

ドクターズ・オブ・ワイキキ ナースプラクティショナー   滝沢 美恵

将来を模索していた高校時代。ふとしたきっかけから 思い切ってハワイへ来たことで人生が変わりました。 高校年生のとき、行きたい大学がなく、進路を考えあぐねていました。一応センター試験を受けたのですが、1年間予備校に通うことにしました。ある日、たまたま道で配られたティッシュに挟まっていたチラシを見ると、そこに海外留学の文字が。「これだ!」と思ったんです。 長野県で生まれ育ち、ずっと親元にいたので、両親は、東京ならまだしも海外なんて心配だと大反対。日本から比較的近く、治安も良いとされ、日本人も多く住むハワイを選び、なんとか説得しました。母が看護師だったこともあり、興味を持っていた看護について学ぶため […]

  • 2019.7.19

こども学習教室オーナー/グレイス インターナショナル不動産・PB・オーナー   岡崎 恵子

    人を信じる気持ちを大切に生きてきた結果、ひどい目にあった30代前半。 今はハワイの人々に支えられ、次世代の子どもの教育に情熱を注いでいます。   私の学生時代は、就職の氷河期と言われた就職難の時代。気の進まない会社に就職するより、もっと学びたいとハワイパシフィック大学に編入しました。在学中に結婚して、グリーンカードも取れ、ハワイの旅行会社に就職も決まり順風満帆。ところが初出勤の日がなんと同時多発テロが発生した9・11。社内はパニックでごった返し、ただただそこにいるだけの初日でした。 1年後、大学時代に知りあった日本の大手メディア会社の社長から頼まれ、ハワイ […]

  • 2019.7.19

創作居酒屋みのりBy 塚田農場  ゼネラル・マネージャー   関口 茉希

    若くしてサンフランシスコ勤務を実現。そして、次はハワイ! つらい現場ほどやりがいがあり、お客様の笑顔を見たときの達成感はひとしおです。       小さい頃から活発で、中学時代は陸上部に所属し、中距離・長距離走に熱中。持続力、我慢強さをこの頃に習得した気がします。高校時代に理系か文系かを選択するとき、広い世界を見たい、英語という世界中の人たちとコミュニケーションできるツールを学びたいと思い、英語科を選択。当時、映画『プラダを着た悪魔』を見たときは、英語で何を言っているのかすべて理解できたらいいなと思いました。 共立女子大学の国際関係学部 […]

  • 2019.7.19

ボディビルダー  メイ 広美

    大好きな仕事と趣味に没頭し、充実していた日々から一転。 難病と闘いながら、好きなことに挑戦し、今を精一杯生きています。   結婚を機に1999年にハワイに移住しました。すぐにヒルトン・グランド・バケーション・クラブに就職。仕事は楽しく、3人の子宝にも恵まれ、充実した日々を送っていました。夫は定職に就かず、たまに子どもに怒鳴ることがあったのだけが気がかりでしたが、そんな夫も長男のような存在に思え、家族のため、そして自分のために、マイホームも購入しました。 エクササイズが大好きで、休日はスポーツクラブでズンバを教えていました。興味を持ったボディビルを始め、20 […]

  • 2019.7.19

ライター/ツアーエスコート  スピア 和子

    タフな旅行業界のトラブル対応や不妊治療などを乗り越えて強くなった私。 お母さん目線での教育情報をライトハウスから発信しています。       私が外国に憧れるようになった最初のきっかけは、1970年に地元大阪で開催された日本万国博覧会です。アポロ12号が持ち帰った月の石を見たときには、幼な心に衝撃を受けました。さらに中1のときに、型破りな英語の先生に出会います。当時は珍しいフォニックスを取り入れた授業のおかげで英語が大好きになり、海外留学を夢見るように。高校卒業後は附属の短大にエスカレーター式に入学したものの、どうしても留学したくて親を […]

  • 2019.7.19

HTA(Hawaii Tourism Authority)  ボードオブディレクター  木村 恭子

    1998年創設のハワイ州観光局の理事に日本人としてただ一人選任。 無報酬のこの職は、ハワイを愛し観光業の大切さを分かるからこそできるもの。     私が就職したのは、男女雇用機会均等法が施行された最初の年。バブル期だったこともあり、就職先のリゾートホテルの開発会社では女性を重用してくれました。2〜3年の腰かけ勤務のつもりが、会社が初めて手掛ける海外リゾート開発のため、マウイ島に転勤の辞令が下りました。赴任したマウイ島では、日本の建築家と共にキャンプをししながら、更地から約1年半かけて、ホテルのイメージを湧き上がらせ、新ホテルを作り上げました。それ […]

  • 2019.7.19

プロソロフラダンサー、フラコーディネーター プアナニ コネクション代表  カプアナニ由美子

    ハワイアンネームの意味は、「真っ赤な太陽の家から降りてきた美しい花」。 その名に誇りを持ち、フラを通してハワイに恩返ししたいと思います。     片道2時間かけての通勤に疲れていた私は、何とか日本を脱出したいと思っていました。母が以前からフラを習っていたので、私も本場ハワイでフラを学べば、海外へ行けると、英語が話せないにも関わらず、1996年ハワイに渡航しました。 まずは、英語学校に入学し、フラの勉強と両立。ところが、この学校で知り合った方から、ある男性を紹介され、お付き合いをすることになったのです。その彼との結婚と予定外の出産で、子育てに専念す […]

  • 2019.7.19

国誠流詩吟会 師範  笹尾加寿子

    アメリカで女手ひとつ、3人の子どもを育て上げました。 88歳の今も、師範として日本伝統の詩吟の素晴らしさをハワイに広めています。     私が12歳のとき、太平洋戦争が始まり、父は設計士として徴兵されました。実家の製紙工場は商売が成り立たず破産。母は私たちを連れて、故郷の佐世保へと疎開しました。 終戦後、英語の必要性を強く感じ、高校では英語を一生懸命学びました。その頃、後に夫となるアメリカ人のビル・ヘンカックとの出会いが。父の友人とヘンカックが知り合いで、私が通訳を頼まれたのです。海軍の白いユニフォームが似合った彼は、当時不足していたお砂糖などを […]

  • 2019.7.19

日本語通訳・翻訳者   畑 友紀子

    ラジオのDJ、モデル、ミュージシャン、医療・法廷専門の通訳・・・。 数々の夢を叶えられたのは、子どもの頃から「諦めず努力を続けたから」。       生まれも育ちもニューヨークです。幼少期から教育熱心な母のもと、お稽古の日々。ジュリアードの先生からピアノを習ったり、家庭教師、塾の他、土曜日の日本語学校には幼稚園から高校卒業まで通いました。漢字を20個書くまでは、夕食が食べさせてもらえないくらいの厳しさでした。 大学を決めるとき、日本人としての生活に憧れ上智大学に留学。同時にラジオのDJになりたいという夢も見つけ、在学中にラジオやテレビ・ […]

  • 2019.7.19

アランチーノ ・グループ 副社長  稲村 綾

    ファミリービジネスは甘くない! プレッシャー満載の10年間。 今ようやく後継者としての苦悩を乗り越え、ハレアイナ・ベスト・イタリアン受賞     幼稚園を卒業した5歳の頃、「引退後はハワイで暮らしたい」という祖父の夢を叶えるため、祖母も含め家族5人でハワイにやって来ました。父に特別な起業のアイデアがあったわけでもなく、観光ビザで入国するなど、結構いい加減なハワイ移住でした。 当時の私は引っ込み思案で英語力はもちろんゼロ。学校に行ってもみんなの言っていることがよくわからない。こちらの子のお弁当は、ピーナツバターサンドイッチとリンゴ一個など簡単なもの […]

  • 2019.7.19

エッグスン・シングス オーナー  縄野 由夏

    突然の父の死と自らの心臓病を乗り越え、夢に向かって走り続けた日々 若い人たちには「決して、夢を諦めないで」とエールを送りたい       7歳のときに父の仕事の関係でミシガン州デトロイトに移住しました。英語にもすぐ慣れ、キャンプやテニスなどアメリカ生活を満喫。家族4人何の不安もない生活でした。 ところが、中1のとき、父が肝臓ガンに侵されていることがわかったのです。タバコも吸わないし、お酒もたしなむ程度の父は、そのとき43歳。1984年の2月、3日後に日本に帰ると突然母から告げられ緊急帰国。空港に着くや否や父は救急車で病院に搬送されました […]

  • 2019.7.19

イオラニ・スクール  外国語学部日本語学科教師  岩本千春

    言葉だけでなく、文化や考え方の違いがあることを伝えて日米の懸け橋となる子どもたちを育てていきたい       今は言語を職業にしていますが、小学生のときに英会話を習ったものの好きになれず、英語は嫌いでした。でも中学時代、英語の先生の授業が楽しくて、英語に対するイメージが変わりました。高校2年生のある日、父が突然「明日から我が家はホストファミリーになる」と宣言し、家族で唯一英語の勉強をしていた私がコミュニケーション担当に(笑)。翌日、ハワイから一人の女性がやってきました。彼女との会話は本当に楽しく、いろいろな考え方を教えてくれました。当時 […]

  • 2019.7.19

デコモード インテリアデザイナー スキン アトラクション オーナー  関戸 敦子

      自分の壁を破りたい! ハワイで走ることに出会えて変わった 目標を設定しそれにたどり着くという生き方   高校卒業までは福島県育ち。自分が将来何をやりたいのか決めることもできず、進学校で皆が東京に行くという理由で受験し、うまくいかず意に染まぬ大学に進学しました。田舎から出てきてキラキラ見えた東京生活の始まりは、希望の大学ではなかったせいか、歯科助手、バスガイド、チラシ配りなどアルバイトに明け暮れる日々でした。 大学卒業後は、日本航空本社国際旅客本部に勤務したものの、25歳で結婚退職。改めて自分が何をしたいのか、長く続けられる仕事は何かと考えまし […]

  • 2019.7.19

レストランサントリー アシスタントマネジャー  坂 亜沙美

    ハワイ好きの両親に翻弄され移住してきた16歳の春。文化の違いを乗り越え、日本を代表する企業の一員として皆様に奉仕しています。   初めて訪れたハワイに一目惚れした両親。3人も子どもがいるにもかかわらず、ハワイ移住を計画し、実行に移したのは私が16歳の4月でした。大学に合格したばかりの兄を日本に残し、就職先も決めず、両親と私、弟の4人がハワイに移り住みました。 私はカラニハイスクールに編入。高校2年からの日本人転校生に話しかけてくれる生徒は少なく、またこちらから話しかけるほどの英語力もなく、寂しい思いをしました。数学だけ、成績は良かったのですが、生物学や国語 […]

  • 2019.7.19

死別サポートグループ 『ハグハワイ』代表  フロイド由起  

    幼なじみと結婚し、一生横浜から出ないと思っていた20代、突然の家族の死に導かれ、今ではハワイで臨床カウンセラーを目指し奮闘中。     高校生の頃、「白衣の天使」になろうと決意したのは、若くして夫を亡くし、二人の子どもを立派に育て上げた看護婦長だった叔母を見ていたから。希望どおり看護学校に入学し、3年後に卒業し大学病院に勤務しました。「白い巨塔」の世界が目の前に広がり、ここでの経験が私の人生にインパクトを与えました。 多くの患者さんの死を経験する中で、最新医療の中で死んでいくのは、実は幸せではないのでは?と疑問を持つように。大学病院ではデータをと […]

  • 2019.7.19

「VCA University Animal Hospital」 Associate Veterinarian野田夏奈

    救うことができた喜びと助からなかった悲しみが交互に。 それでも獣医師として動物たちと生きていきたい       5歳のときに父の仕事の関係でニューヨークへ移住しました。アメリカで育ったせいかわかりませんが、子どもの頃から「手に職をつけて自立した女性になろう」と決めていました。 物心ついた頃から猫やウサギを飼っていたので動物が大好きで、将来は動物に関わる仕事をしたいと思うようになりました。大学時代に動物病院でアルバイトをし、卒業後は獣医師の勉強をするためにイギリスのロンドン大学に進学。イギリスへ行ったのは他国の文化に触れたいというアドベン […]

  • 2019.7.19

「ザ・カハラ・ホテル&リゾート」 アジアPR・マーケティングマネージャー  佐々木和歌子

    憧れてやってきたアメリカ。言葉が通じず悪戦苦闘しましたが、今では日英両語を駆使して、PRマネージャーとして邁進中!       10代の頃から海外の音楽や映画に夢中。週末ともなれば、レンタルビデオのTSUTAYAで映画を借りてきては、ずっと見入っていました。特にハリウッドの映画が大好きで、いつかアメリカに留学したいという気持ちが次第に強くなり、短大時代はバイトに明け暮れ、就職後もお金を貯めて、「目指せアメリカ!」でした。 短大卒業後の就職先は、日本郵船の子会社。海外の船荷証券を扱い、カウンターでの接客業務がメインでした。船荷証券業務は全 […]

  • 2019.7.19

「ウィンダム・バケーション・オーナーシップ」 ディレクター・オブ・マーケティング  ヤング幹子

    結婚、出産を経て、子育てをしながら追いかけてきた夢は、少しでも多くの日本人にバケーションを提案する仕事         英会話の先生をしていた23歳のとき、アメリカ人と結婚し、サンディエゴに移住しました。夫が国防総省の仕事をしていたので異動が多く、大学へ入学したものの、異動とともに編入を繰り返し、7年かけてようやく卒業。1988年に双子を出産したときはイタリアに住んでいました。その後、バージニア州ではモンテッソーリ教育者の資格を取得。次の転勤先の日本で再び英会話を教えました。 2000年にハワイへ異動となり、家族4人で引っ越し […]

  • 2019.7.19

JTB Hawaii,Inc. President & CEO 北川 博幸

    社員数800名を超えるハワイの大企業、JTBハワイ。旅行ランドオペレーター、バス会社、ゴルフ手配会社、レンタカー会社を含む「旅の百貨店」と呼ばれる同社、社長の北川博幸さんに人生の転機を伺った。     宮本武蔵が湯治に訪れたという佐賀県の温泉街、武雄市で生まれ育ちました。大学時代はバンドをつくってライブハウスや大学の学園祭で演奏していました。この頃、バンドの先輩とNYCに行くチャンスがあったのですが、それが叶わず非常に残念な思いをしました。もともと外国の文化や歴史への関心が強く、仕事で頻繁に海外に行けるだろうということから旅行会社に就職。法人営業 […]

  • 2019.7.19

セントラル パシフィック ファイナンシャル コーポレーション 会長兼CEOポール与那嶺

    祖国アメリカのために戦った元日系2世兵士たちが「日系人のために」と設立した銀行、セントラル パシフィック バンク。その銀行のトップに就任した、日本生まれのポール与那嶺さんに人生の転機を伺った。       私の父ウォーリー与那嶺は、日本プロ野球界で戦後初の外国人選手として、東京読売巨人軍に入団したハワイの日系2世。後に外国人にもかかわらず、日本の野球殿堂入りを果たすなど輝かしい功績を残した父でしたが、現役時代はいつクビになるかわからないとハワイに戻ることを念頭に、子どもの教育はすべて英語でした。当時、父はアロハ航空の宣伝に出ていたので、 […]

  • 2019.7.19

Hawaiian Joy 社長  深山博史

    ハワイで1978年に創業し、日本人をはじめ多くの人に快適な住まいを提供し続けてきた不動産会社ハワイアンジョイ。20代で社長に就任し、11年目を迎える若きリーダー深山博史さんに人生の転機を伺った。   日本出身の父と母がハワイで出会い、結婚。1978年に母がハワイに不動産会社ハワイアンジョイを立ち上げ、父が社長となり、その2年後に私が生まれました。 幼少期からこのままハワイで進学し、就職するのだろうと思っていました。ところが高校入学のとき、母が慶應義塾ニューヨーク学院の情報を持って来たのです。ハワイを出るのは一つの挑戦。NYへ進学しました。初めての日本人だけ […]