かつてのホノルルを回想する
私はオハイオ州に生まれましたが、2歳のときに母に連れられてハワイに移住したのでオハイオのことは何も覚えていません。父はスイス系アメリカ人ですが母の先祖のことはよく知りません。今98歳なので96年間ハワイに住んでいますから、自分ではローカルだと思っています。
子どもの頃はパロロのアヌヘア通りに住んでいました。今は親が車で子どもを学校に連れて行きますが、当時は皆が歩いて学校に行きました。私は白人ですが、近所には日系人やフィリピン系の人など、さまざまな民族の人が仲良く住んでいたので、学校にもいろんな人がいました。
まだ近所にスーパーマーケットがなかったので、母は、毎水曜日に採れたての農作物をトラックに乗せて売りに来る人から野菜や果物などを買っていました。とても印象に残っているのは、中国系の人がマナプアを入れた天秤棒を担いで近所を訪れ、売り歩いていたことです。
学校では正当な英語を話さなければなりませんでしたが、それ以外では友達も近所の人もピジン英語だったので、私もピジン英語で話したり「What’s–a matter you last night?(昨夜はどうしちゃったの?)」などのピジン英語の歌をよく歌いました。
当時は、高層ビルはほとんどなく、緑や空き地も多く、今よりずっと広々としていました。路面電車がカイムキのワイアラエ通りからキング通り経由でモアナルア公園まで通っていたので、家族で路面電車に乗ってモアナルア公園まで行き、よくピクニックをしました。その路線からワイキキ、ハワイ大学経由でマノア近辺、ヌウアヌ通り、リリハ通りへの支線もあり、今のバスに相当する当時の庶民の主要な交通手段でした。
戦争勃発
私は実業家の夫と結婚し、カイルアに住んでいました。ある日、飛行機が爆音を立てて上空を飛び交っていたので、ラジオを付けたら日本軍が真珠湾を攻撃して戦争が勃発したと知りました。灯火管制が敷かれ家の窓を全て黒いもので被わないといけませんでしたし、夜は家の中にいないと逮捕されました。
まだ戦時中だった1942年に妊娠し、長女を出産するためにヌウアヌパリを越えてカピオラニ病院まで行きました。当時はヌウアヌパリのトンネルがまだなかったので、陣痛がしてから山越えをするのは本当に大変でした。
当時は女性が会社で働くのはまだ珍しかったですが、私はホノルル・スターブレティン紙で働くことになりました。時給3ドルで日給は24ドルでした。絵を描くのが得意だったので広告のイラストを描いたりしましたが、失敗もしました。デザイナーから写真をトリミングしてと言われ、写真をハサミで切ってしまったら、ものすごく怒られました。よく聞いてみたら、写真に不要な部分を示す線を描くだけでよかったのでした(笑)。
若い頃は、よく劣等感に陥りましたが、年を重ねるにつれ、今あるものだけで幸せだと感じるようになりました。長生きの秘訣は、2時間の昼寝、裸足の生活、ヨーグルト、毎朝のヨガです。
Esther Nowell
1920年オハイオ州生まれ。1922年に家族に連れられてハワイに移住。アリイイオラニ小学校、ルーズベルト高校卒業。1954年から1年間ホノルル・スターブレティン紙にアーティストとして勤務。1968年ハワイ大学マノア校教育学部卒業。1966年よりアダルトスクール、ハワイ・ポッターズ・ギルドなどの陶芸講師として活躍する。
(2018年7月16日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年7月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。