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かつてのワイアルアやえひめ丸事故を回想する

私はワイアルアのランチキャンプ生まれの日系3世です。母方の祖父母は熊本県出身で、父方の祖父母は山口県大島郡の出身です。祖父母は砂糖プランテーションで働くために移住しました。

 私が子どもの頃は、ワイアルアはプランテーションの村として知られ、辺り一面サトウキビ畑でした。ランチキャンプには、プランテーションで働く日系人やフィリピン系の家が50件ほどありました。住民は皆、血のつながりのない親戚のような感じでしたから、誰も家に鍵をかけませんでしたね。

 ワイアルアには、製糖工場、小学校、郵便局、本願寺、靴屋、田辺荒物雑貨店、フジオカ一族がやっているフジオカ・ストアという雑貨屋が2軒ありました。私は高校生の頃、フジオカ・ストアで配達のアルバイトをしました。プランテーションの月1回の給料日には、お米を注文する人が多く、その日は1袋約50キロのお米をたくさんの家に届けなければいけませんでした。

 カラエロアの父方の祖父母の家には、日本式のお風呂とトイレが家の外にありました。暮には臼と杵で餅つきをし、お正月には門松や鏡餅などを飾り、いつもよりたくさんのごちそうが並びました。

 プランテーションは、住民のための福利厚生がとても良かったですね。子どものためのイベントがよくありましたし、クリスマス時期にはトラックに乗ったサンタクロースが来て、子どもたちにプレゼントを配ってくれました。

えひめ丸事故

 えひめ丸事故は、2001年2月9日にありました。オアフ島沖で訓練をしていた愛媛県立宇和島水産高校の練習船のえひめ丸に米海軍の原子力潜水艦グリーンビルが衝突してえひめ丸を沈没させた事故です。乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人と生徒4人が死亡する事故になり、救出された人のうち9人が心的外傷後ストレス障害と診断されました。

 私は当時、ハワイ日米協会の会長をしていたので、事故のニュースがテレビなどで流れた直後から「何かできることはないですか?」という電話が立て続けになり始めました。でも、その時点ですでに緊急対応部隊がいろいろ動いていましたから、一般の方が介入するとかえって邪魔になるので、お気持ちはよく分かるのですが、その対応には一苦労しました。

 事件の全貌が分かり始めてくると、日米の文化の違いで双方に誤解を招いてしまうので慎重に対応しないといけませんでした。日本の方は「事故を起こしたのに、どうして謝らないのか?」と思うでしょうが、アメリカでは「謝る」ことは、自分の非を認めることなので、謝ることにはとても慎重です。

 一方、日本では遺体を収容して遺族に渡し、お葬式をしてお別れをするのは当然のことですが、アメリカ人の中には、遺体を膨大なお金(税金)と労力をかけて引き上げるのは、理にかなわないと思う人がいます。どちらの言い分も分かるのですが、へたをすると日米関係にひびが入りかねないことを説明するのは大変でしたね。

 

2016年ハワイを訪れた安倍総理と。大川さんは右から2人目(写真:内閣総理大臣官邸写真室)

 

 

Earl Okawa
1944年ワイアルア生まれの日系3世。1967年ハワイ大学卒業。1976年セントラル・ミシガン大学個人管理学修士号取得。1967年から1992年まで米空軍将校。1992年から2007年まで、ハワイ日米協会・皇太子明仁親王奨学金・えひめ丸メモリアル協会の会長を務める。現在日米協会・皇太子明仁親王奨学金名誉会長。2005年(平成17年度)旭日小綬章受章。

(2019年8月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年8月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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