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幼少の頃のワイキキやアルバイトを回想する

私は1936年に、当時米領土だったパナマ運河地帯に生まれました。母方の祖父母はポルトガルからの移民で、母はホノルル生まれのポルトガル系2世です。父はアングロサクソン系白人で、海軍の軍人でしたから転勤が多かったですが、私が4歳のときに家族でホノルルに戻り、ワイキキのルワーズ通り、今スターバックスがあるところに住んでいました。

 母はクムフラ(フラの先生)で、ワイキキの『ベティ・レイ』というフラ・スタジオでフラダンスを教えたり、踊ったりしていました。母がフラのショーに出ていたので、私も子どもの頃、母の公演にタダ働きで出たことがあります(笑)。

 母はハリウッド子役のシャーリー・テンプルにフラダンスを教えたことや、4歳のときに、ワイキキ戦勝プール (Waikiki Natatorium War Memorial) で、デューク・カハナモクに泳ぎを教えてもらったことが自慢でした。

 当時ワイキキには、1901年にオープンしたモアナ・ホテル、1907年にオープンしたハレクラニ・ホテル、1927年にオープンしたロイヤル・ハワイアン・ホテルしかなく、空き地が多くてのんびりとしていました。気温も22℃くらいで涼しく、過ごしやすかったです。

ワイキキでの幼少時代

 幼少の頃から、自分の食いぶちは自分で稼がないといけないと言われたので、私はジェファーソン小学校に通いながら、放課後や週末には仕事をしました。最初の仕事は靴磨きで、7歳のときから、カラカウア通りとルワーズ通りの角で靴磨きをしました。

 当時、ロイヤル・ハワイアン・ホテルなどに滞在している軍人さんがよくワイキキを行き来していたので、お客は主に軍人さんでした。

 普通の靴磨きは25セント。ピッカピカ仕上げは50セントで、私の初めての商売は大盛況でした(笑)。当時、25セントで昼飯が買えましたから、他の場所で靴磨きをしていたガキ大将たちにねたまれて、いじめられもしましたが、隣のレイ・スタンドのお姉さんが助けてくれました。

 10歳から12歳までは、現在の『ホノルル・スター・アドバタイザー』の前身の『ホノルル・アドバタイザー・アンド・スター・ブレティン』の新聞配達をしました。

 当時、私はワイキキで唯一の新聞配達少年で、中古の自転車に乗ってカピオラニ公園からフォート・デルッシーまで200軒くらいの家に配達しました。当時は夕刊紙でしたから、放課後2〜3時間くらいの仕事でした。日曜版はずっしりと重く、自転車で運ぶのは大変だったので、父が車に乗せてくれました。

 1941年12月7日、真珠湾攻撃直後の朝8時過ぎに電話が鳴り、父に真珠湾への出頭命令が出ました。母はそのとき朝食を作っていたのですが、事態を憂慮し、わざとトーストを3度も焦がして、父が少しでも長く家にいるようにしたので父が怒り、けんかをしていました。その後、クヒオ通りとルワーズ通りの角辺りで低空飛行していた日本軍の戦闘機を見たのを覚えています。

 

1948年、テネシー州に引っ越す日、両親と

 

Warren Smith
1936年米領パナマ運河地帯・米海軍基地生まれ。4歳から12歳までをワイキキで過ごす。テキサス州ヒューストン・サン・ハシント高校卒業。生涯にわたりガルフ石油・シェブロン社で石油に関する仕事に従事する。シェブロン社前身のガルフ石油の石油販売太平洋地区支配人として東京に3年間駐在。シェブロン・ナイジェリア代表としてナイジェリアのラゴス市に5年間駐在。

(2019年9月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年9月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

 

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