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かつてのカパフル、モイリイリを回想する

 

 

私は1945年にロサンゼルスに生まれ、1974年にハワイに来ました。飛行機から初めて見たハワイは、海の色が印象的で、岸辺に近くなると青色からエメラルドグリーンに変わるのがとてもキレイだと思いました。

当初はダイヤモンドヘッドの麓のカパフルに住んでいました。カパフルは、いろんな民族の人が住む地域で、英語では「Mom and Pop store」と呼ばれる、夫婦で細々とやっているようなよろず屋があちこちにありましたが、今ではそんな店はほとんどなくなってしまいました。

1980年代にモイリイリに引越し、近所の人たちとモイリイリの歴史について話をする度に、皆がこの地域に愛着や思い出があることが分かりました。それで、皆の話や写真をまとめて本を作ることになり、私が編集をすることになったので、モイリイリについてさらに深く知るようになりました。

 

モイリイリの移り変わり

モイリイリというのは、ハワイ語で小石を意味するイリイリからきています。太古にタンタラスのプウカケア火山が噴火して、そのときの溶岩が小さな小石のようになって流れ落ち、その昔モイリイリは溶岩の小石で埋まっていたのでモイリイリと名付けられました。

かつて天然の地下水路があり、ボラ、ナマズ、エビなどがいて、釣りをしたり、子どもなら泳いだりすることもできました。1800年代にはハワイアンや中国人が住むようになり、田んぼやタロイモ畑になりました。

モイリイリは、日系人ととても関係の深い街でもあります。1893年頃、カシワバラさんという人が日系1世として初めてモイリイリの現在の三角公園辺りに移り住んだという記録があります。

1920年代、モイリイリにはお相撲の土俵がたくさんありましたし、国勢調査によると、1930年代、モイリイリの人口の80%が日系人でした。そのほとんどが農夫、大工、パイナップル工場の工員、自動車修理工などの一般労働者でした。

キング通りは、豆腐屋、おかず屋、食堂、魚屋、菓子屋、雑貨屋、生地屋、理髪屋などがある日本人街でした。ミヤゾノ屋外劇場では無声映画などが上映され、マナプナ売りや、お米をはじかせたお菓子のパフドライス売りなども行き来していました。ホットドッグのランチワゴンもキング通りとユニバーシティ通りの角にありました。

モイリイリ本願寺が地域の要で集会所の役目を果たし、日本語学校もありました。日系人の子どもは通常の小学校に行った放課後に日本語学校にも通い、日本語だけでなく相撲、なぎなた、書道などの文化も学びました。

モイリイリは花の街と言われた時期もあります。花畑や花屋がたくさんあり、花屋で仏花を買ってから墓地にお墓参りに行く人が多かったです。モイリイリ日本人墓地は長い間荒廃した状態でしたが、有志が集まって掃除をしたり、石塀を造ったり、小石を敷き詰めたり、ピクニックテーブルを設置したりして美化活動をしているので、今はとてもキレイになっています。

1928年キング通りにあった神代商店

 

 

Laura Ruby

1945年ロサンゼルス生まれ。1974年にハワイに移住。ハワイ大学などで講師として34年間教鞭をとるかたわら版画などを制作する。2008年Hawaii Individual Artist Fellowship 受賞、2012年よりモイリイリ日本人墓地の美化運動を主導する。2015年度本派本願寺人間国受賞。「Moiliili—The Life of a Community」の編集者。共著書に「Honolulu Town」「Honokaa Town」がある

(2018年3月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年3月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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