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戦中・戦後やかつてのハワイを想う

 

 

私は茨城県日立市に3人兄弟の長女として生まれました。父は女学校の校長、母は小学校の先生でした。子どもの頃家族で東京に上京したのですが、戦時中は日立市に疎開しました。日立市は空襲があり、飛行機から焼夷弾が次々と落とされるのを見ましたし、食べ物がなくてひもじい思いもしました。生き埋めになった人も見ましたが、自分たちも逃げるのに必死だったので助けられませんでしたね。

戦後、再び家族で東京に移住し、私は文化服装学園に入学しました。モノがない時代でしたから和紙で縫い物の練習をしました。学校の窓もガラスではなく、和紙が貼ってありました。卒業前にウエディングドレスを作ったのですが、私は父が兵役を終えて除隊したときに持ち帰った白いパラシュートで作りました。

卒業後、三井倶楽部が米国に接収されて将校クラブになっていた所の受付で、将校や奥様方のコートなどを預かる仕事をしました。そこで働いていた同僚から日本航空の客室乗務員の募集のことを知り応募しました。筆記試験はマルバツ式で、面接試験は新橋の第一ホテルで行われ、受験者がビルの周りにぐるりと並んでいました。

後に「容姿端麗、新制高校卒以上、英会話可能、東京在住」という条件があり、広告にはエアーガール募集と書かれていたことを知りました。1300人ほどの応募者があったそうですが、幸い15人の合格者の中の1人に選ばれました。

でもまだ日本航空には飛行機がなくて、フィリピン航空から借りていましたし、占領下で日本人による操縦が認められずパイロットは全てアメリカ人でした。私の第一便は羽田発札幌行きで、飛行機はマーチン2−0−2、乗客は28人程でした。後に仙台便、名古屋便なども飛びました。

ある朝、同僚の権田さんから「具合が悪いから明日のフライト代わってくれない?」という電話がありました。いいわよと答え、そのつもりでいると、夕方にもう一度電話があり「良くなったから飛びます」と言われたのです。

次の日、その福岡行きの〝もく星号〟は伊豆大島に墜落して、乗客乗員37人全員が亡くなりました。とてもショックでしたね。

かつてのホノルル

その後アメリカ人と結婚し、1970年にハワイに来ました。来た当初はムームーを寝巻きだと思い、寝巻きを着てウロウロしている女の人がたくさんいると思いました(笑)。初めはハワイカイに住んだのですが、今コスコやロングスのある辺りはまだ野原でしたね。

今のドンキホーテの前身はダイエーで、来た当初はホリデーマートでした。スターマーケットというスーパーマーケット、舞子、京や、ウィステリアというレストランもありました。

アロハタワーの近くの埠頭には中国の建物を模したはしけ船のレストラン、オセアニア・フローティング・レストランがありましたし、東洋劇場という日本的な映画館には、鯉のいる池がありました。

いろんな移り変わりや時代がありましたね。

日本航空客室乗務員として勤務した1951年頃

 

Tokuko Smith
1930年茨城県日立市生まれ。小学生の頃家族で東京に移住するが、戦時中は日立市に疎開し日立女学校を卒業。再度家族で東京に移住し、文化服装学園を卒業後、米軍将校クラブの接客係として勤務。1951年日本航空に客室乗務員1期生として入社し、客室乗務員として国内線を飛ぶ。1953年に退社し、富士フィルムの撮影モデルになる。その後結婚し息子2人を出産。1970年に家族でハワイに移住。

(2018年10月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年10月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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