ハワイに来る縁となったなぎなたとの出会いを回想
横浜に生まれましたが、4歳のときに父が他界し、私は水戸市の夫婦に養女にやられました。養父母は方言が強く、養母は自分のことを「オレ」と呼んでいました。初めはすぐ家に帰れると思っていたので、寂しくて泣いてばかりいました。そんな私を見た近所の人がなぎなた道場に連れて行ってくれたので、なぎなたを始めました。
なぎなたは日本古来の武道で、江戸時代には僧侶と婦人の武器でした。戦前は婦女子のたしなみとして学校でも教えていました。道場にいるときは寂しいと思いませんでしたし、「少女の友」という雑誌になぎなたをする私の記事が載り、嬉しくて、なぎなたに夢中になりました。
13歳の頃、横浜に実母がいるはずだと思い、1人で汽車に乗って母を捜しに行きました。お巡りさんに助けられて実家を探し当てたのですが、実母と姉は「あなたは養女に行った子なので家には入れられない」と玄関先から追い出されました。
養父母は、家出をしたことに腹を立て「今までの食いぶちを払え」と言うので、しばらく実兄と一緒に生活しました。15歳の頃から東京で1人暮らしを始め、新聞配達や不動産屋で働きながら夜間学校に通いました。でも、なぎなたはずっと続けていました。
ハワイに移住
なぎなたを続けた甲斐があり、東京オリンピックの翌年にオランダから招待されて、なぎなたの実演をしました。女性の武道家ということで話題となり、新聞やテレビで世界的に紹介されたことがきっかけで、ハワイ日本人商工会議所と縁ができ、1969年にハワイで実演をすることになりました。
ハワイの第一印象は田舎だと思いました。日本人観光客も少なく、大型ホテルはロイヤルハワイアン、モアナ、イリカイくらいでしたが、私は安価なグランドホテルに泊まりました。日本料理店も少なかったですが「ふるさと」が近くにあってほっとしました。アラモアナセンターもまだ小規模で、ムームーやアロハシャツの店、ハワイ産の黒珊瑚の店などが観光客に人気でしたね。
実演を見た人がなぎなたに興味を持ち、習いたいと言うので、それから2年ほど自腹で日本とハワイを行ったり来たりして教えていましたが、故スパーク松永議員の尽力で永住権を得ました。以来ずっとなぎなたを教えています。
松永氏になぎなたをハワイで広めることを約束しましたし、なぎなたは私の生き甲斐ですから、本部への会員費、稽古場への支払いはありますが、生徒から月謝は受け取りません。
ですから引退するまで、宝石店、レストラン、子守り、清掃人などさまざまな仕事をし、毎日、早朝から夜遅くまで働きました。ある日、仕事から帰ると、アパートにヤモリが壁に張り付いていてびっくりしたことがあります。初めてヤモリを見たので怖くて、当時キング通りあった中村ホテルに一泊しました。でも朝戻ったら、まだ同じ場所に居ましたね(笑)。
思い返せば辛いこともありましたが、ずっとなぎなたに支えられてきました。なぎなたと出会えて良かったです。
Hanae Miura
1932年横浜生まれ。5歳の時に水戸市の家族の養女になり、なぎなたを習い始める。1965年オランダから招聘されユトレヒト市でなぎなたの実演をする。1969年ハワイの桜まつりでなぎなたの実演をする。1972年にハワイに移住し、なぎなたを教え始める。直心影流なぎなた術8段練士。剣道初段。現在もなぎなた教室を毎土曜日午後1時よりハワイ浄土宗別院で開催している
(2018年2月16日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年2月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。