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かつてのホノルルを回想する

 

私は1942年にホノルルに生まれた日系3世です。父方の祖父母は熊本県出身で、砂糖プランテーションで働くためにハワイに移住しました。母方の祖父母は福岡県の出身です。子どもの頃はリリハの日系人が多く住む街で育ち、近所にはヨシカワ、シゲタという家がありました。大人も子どもも近所の人はみんな顔見知りで、みんな家族や親戚のような感じでしたから、誰も家に鍵をかけませんでしたし、近所の家に行って冷蔵庫を開けたりしても怒られませんでしたね。

 近所の子どもたちと竹馬で遊んだり、一緒にヌウアヌ川に行って、メダカやオオプを獲ったりしました。一度ザリガニを捕まえたことがあって、面白がって焚き火で火あぶりにして食べてみましたが、おいしくなかったので、二度と食べようとは思いませんでしたね(笑)。

 毎年暮れにはパラマキャンプの親戚の家に家族で行き、杵と臼で餅つきをしました。お正月には門松を飾り、お雑煮や煮しめなど、いつもよりたくさんごちそうが食卓に並び、大人たちは日本酒を飲んでいました。

 

50年代後半から60年代

 1957年頃までは、車の上にケーブルが付いたトロリーバスがワイアラエ通り、キング通り、ベレタニア通り、ヌウアヌ通り、リリハ通りなどを走っていました。

 私の卒業したマッキンレー高校の学区はかつて日系人の街で、生徒もほとんどが日系人でしたから「東京高校」という異名がありました。でも、私が通い始めた頃から日系人の割合がだんだん減り始め、今は他の民族もかなり移り住んでいますから、東京高校とは言われなくなりましたね。

 私が中学生の頃は、ホノルルには高層ビルはありませんでしたし、ほとんどの道路が対向2車線でした。米空軍に従軍して本土に滞在していたとき、休暇でホノルルに帰省する度に高層ビルが増えることや、道路の車線が増えているのに驚きました。一度、車線が増えたことに気が付かず、昔の道路のままだと思い込んで運転していたら、誤って対向車線に入ってしまい、肝を冷やしたことがあります。

 また、パリハイウェイは1962年にできたのですが、それ以前はホノルルからカネオヘに行くには、くねくねした曲がり道の多いオールドパリロードしかありませんでした。当時のガールフレンドがカネオヘに住んでいたので、会いに行くのにずいぶん時間がかかりましたね(笑)。

 1959年にアラモアナセンターがオープンしたときは一大イベントでした。昔はホノルルでショッピングに行くと言ったら、ダウンタウンのフォート通りに行くことでした。それまでホノルルにはショッピングセンターはありませんでしたし、突然、全米一大きいと銘打ったショッピングセンターができて、母や姉妹がウキウキしていたのを覚えています。

 その昔、1日休日があると、のんびりと家族でオアフ島をぐるりと一周ドライブするのが楽しみでした。誰もスピードを上げて運転する人はいませんでしたし、皆がアロハ精神で道を譲り合っていました。今想えばよい時代でしたね。

1957年頃家族と。たけおさんは後列中央

 

 

Elmer Takeo Kudo
1942年ホノルル生まれの日系3世。1965年ハワイ大学音楽学部卒業。1967年から71年まで米空軍に従軍。1975年インディアナ大学音楽学修士号取得。1977年ハワイ大学民族音楽学修士号取得。1980年マイアミ大学作曲学博士号取得。30歳の頃より尺八に興味を持ち始め人間国宝の山口五郎氏に師事する。ハワイ大学で教鞭をとるかたわら1994年から音楽学部部長を4年間兼任。尺八奏者としても知られる。

(2019年6月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年6月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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