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コロラド、強制収容所、ハワイの思い出

 

私は1937年にテキサス州エルパソに生まれました。母方の祖父母は広島県の出身です。父は宮城県出身で、18歳のときに英語を学ぶためにエルパソに移住しました。

父は1メートル80センチで筋肉質だったので、その後スマイリング佐藤という名前のプロレスラーになり、10年以上、米本土各地で興行をしていました。

私は、祖父母や父とは日本語で話し、母とは英語で話しました。毎年暮れには近所の日系の家族が集まり、臼と杵で餅つきをして、鏡餅やお雑煮の餅を作りました。

真珠湾攻撃の日は、ロサンゼルスの親戚を訪れていました。海岸に兵士がたくさんいて銃を空に向けていたのを覚えています。その後、両親と私はアリゾナ州ポストンの強制収容所に収容され、私は収容所内の幼稚園に通いました。 私たちは仮設住宅の大部屋に入れられたので、両親は段ボールで間仕切りをしていました。砂嵐が来ると隙間から砂が中に入ってきたのを覚えています。施設内には男女別の共同浴場がありましたが、シャワーヘッドだけが並んでいて、間仕切りがなく、他の人の裸が丸見えでした。

1年ほど収容された後、コロラド州ホリーの母方の祖父母の農場に移り住みました。田舎でしたから、私の学年は27人しかいませんでした。スクールバスに乗っているときに「ジャップ」と呼ばれたこともありましたね。

当時トラクターの運転に免許は不要だったので、私は10歳の頃に運転を始め、夏季休暇や放課後は農場の仕事をしました。ウチは小作農家だったので、収穫した作物の何割かは地主に収めていました。

高校卒業前、校長先生が私を含め4人の生徒を380キロ離れたコロラド大学に連れて行ってくれて、入学手続き、奨学金、バイト先、寮など、全ての世話をしてくれました。彼がいなかったら私は農夫になっていたと思います。

 

ハワイに移住

ハワイには1965年にプロペラ機で来ました。飛行機を降りたら、プルメリアの香りがしたのを覚えています。海も空も青く、自然も花も鮮やかだと思いました。来る前は、ハワイは小さな島で、草ぶきの家があって、住んでいるのはハワイアンだと思っていましたが、意外に都会なのでびっくりしました(笑)。ワイキキは、高層ホテルの建設ブームで起重機が立ち並んでいました。

初めて東オアフの海岸線をドライブしたり、ハナウマ湾に行ったときは感動しました。今のように人が多くなく、魚の種類も数もずっと多かったですね。昔はエンターテインメントも充実していて、ドン・ホーやソサエティー・オブ・セブンのショーは楽しめましたし、フラダンスのコダック・フラショーは観光客に人気がありました。

1966年にジッピーズがオープンしたときは新鮮な感じでした。コロラドでは、手軽に食べられるのはハンバーガーくらいしかありませんでしから、プレートランチやローカルフードを食べる楽しみが増えて、以来行きつけの店になりました。フラやハワイアン音楽が楽しめるクイーンサーフ海岸沿いにあったクイーンサーフというレストランは、古き良きハワイの趣がありました。

4歳か5歳の頃、母親と

 

Mamoru Sato
1937年テキサス州エルパソ生まれ。日系2,5世。真珠湾攻撃の後、両親と共にアリゾナ州の強制収容所に収容される。1963年コロラド大学芸術学部卒業。1965年同校芸術学部修士号取得後ハワイに移住し、同年よりハワイ大学マノア校芸術学部で教鞭を取るかたわら作品制作に携わる。ダニエル・イノウエ国際空港、ハワイ大学、ヒロ病院、米本土、鹿児島県など世界各地に作品が展示されている。

(2019年4月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年4月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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