カハラ、ハワイカイやデューク・カハナモクの思い出

 

私は1946年にホノルルで生まれました。母方の曾祖父母はポルトガルのマデイラ島出身で、父方はイギリス・アイルランド系の白人です。父方の祖父は海軍兵で、1927年、パールハーバー赴任を機に家族全員でハワイに移住しました。

子どもの頃、祖父と私の家族はカハラの借地に住んでいました。当時は今のような高級住宅地ではなく、レタスやニンジンなどを耕作する日系の農夫がたくさん住む農地で、祖父は馬を飼っていました。家の裏庭には大きなバニヤンの木があり、兄弟とかくれんぼをよくしました。舗装道路はケアラオル、アウカイ、カハラ通りだけで、家の前の通りはファーマーズ(農夫)通りと名付けられた泥道でした。今カハラモールがある所は草ぼうぼうの野原でしたね。

キラウエア通りとワイアラエ通りの角には、飼料屋のK・岡田ストアがありました。その向かいには本願寺がありましたが、後にスター・オブ・ザ・シー・カトリック校になり、私はそこの幼稚園に通いました。校舎は古い木造で、教会は畜舎のような感じでした。先生は修道女で、修道服を着てベールをかぶり、顔と手だけが見える伝統的な装いでした。

ハワイカイはまだ埋め立てや住宅開発の前で、クアパ養魚池があるだけでした。カイムキのワイアラエ通りからクアパ養魚池までは2車線で、ルナリロホームロードはシニアホームまで泥道が続いていました。

ビショップ財団はカハラ地区の開発を決め、賃貸借契約を終了することになったので、私たちの家族はクリオウオウに引っ越しました。近所の子どもたちと木材やトタン波板でカヌーを造り、クアパ養魚池に繰り出しました。モノを造る楽しみと探検の楽しみがあり、とてもワクワクしましたね。

 

小児麻痺、デューク

私が子どもの頃の1950年代前半には小児麻痺が流行っていて、私と兄弟3人が小児麻痺にかかり入院しましたが、幸い誰も後遺症はありませんでした。1955年にワクチンができた際には兄弟6人全員が予防接種に行き、新聞のニュースになりました。ワクチンができてからは小児麻痺はほぼなくなりました。

父はハワイに移住したとき12歳でしたが、すぐにマリンスポーツクラブのアウトリガー・カヌークラブに入り、サーフィンやカヌーを楽しみました。そんな父に育てられたので私の兄弟は皆、海のスポーツに親しみ、日中はワイキキやマカハの海岸で過ごすようになりました。

そのお陰でデューク・カハナモクやバッファロー・ケアウラナなどのビーチボーイズとも親しくなり、私はデューク・カハナモクのサーフチームに入りました。デュークはアロハ精神に満ちた人で、腰が低く、映画スターでも清掃員でも、同じように接していましたし、人の悪口は絶対言いませんでした。涼しい木陰で昼寝をすることや、お金で買えるものは重要ではなく、目に見えない友情などが人生の宝であることを彼から学びました。とても偉大な人で、彼と知り合えたことはとても光栄でした。

1965年、中央のデュークの右隣がヘミングスさん

 

 

 

Fred Hemmings
1946年ホノルル生まれ。1965年プナホウ高校卒業後ハワイ大学に入学するが、実業家に転身し中退。1960年代にマカハ国際サーフィン大会で4回優勝。1964年ペルー国際サーフィン大会優勝。1983年に3つのプロサーフィン大会を統合し「Triple Crown of Surfing」を創設。1984年から1990年までハワイ州下院議員。2000年から2010年までハワイ州上院議員。今年3月に英文著書「Local Boy」を出版。

(2019年1月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年1月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

 

 

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