ジョン・ヤングは1744年ランカシャー生まれの英国人。
ヤングの名を冠した通りが、ホノルル美術館前のトーマス・スクエアから、ハワイ日本文化センターの前のモイリイリ公園まで東西に走っています。ベレタニア通りとキング通りの間にあって、あまり目立たないかもしれませんが、この三つの通りの名は19世紀半ばにはすでに記録に残っています。
カメハメハがハワイ王国を創り上げる4年前、1791年3月。ある米国の貿易船がハワイ島コナの南、ケアラケクア湾に到着した際、1人の船員が上陸したまま行方不明になりました。その人物がヤングです。
ハワイ島全てを支配した後、他の島々も手中に収めるべく虎視眈々と狙っていたカメハメハにとって、ヤングは好都合な人材だったのかもしれません。ヤングは同じ頃、ハワイ島北西部のカワイハエ付近でネイティブハワイアンの一団に襲われた米国船で大怪我をしながらも1人だけ生き残ったウェールズ出身のアイザック・デービスと共に、カメハメハに大砲の使い方や帆船の操作方法などを教えることになります。カメハメハと交友関係を築いたとされる英国のバンクーバー船長来島時には通訳も担いました。
ヤングは当初、ハワイからの脱出の機会を狙っていたようですが、その機会は得られませんでした。マウイ島からオアフ島攻略に参加し、カメハメハの信頼を得て腹心の部下となり、王国成立後は大王の下でオアフ島の知事も務め、一生をハワイで過ごしました。
ハワイ8島の統一を成し遂げたカメハメハ大王は晩年をハワイ島のコナで過ごしました。1819年、大王の臨終の際、ハワイアンのカフナ(神官)と西欧人の医者と共に立ち会った1人がヤングでした。
ヤング自身は1835年に91歳で亡くなりました。葬式はホノルルのカワイアハオ教会で執り行われ、マウナアラに王家の墓地が完成した後、ヤングの棺もそこに移され、王家の墓地に眠る数少ない欧米人の1人です。
ヤングはハワイアンの妻との間に何人かの子を授かりました。大王の孫、カメハメハ4世に嫁いだエマ王妃はヤングの孫にあたり、英国人の血が4分の1流れていました。
ヤング通りですが、カラカウア通りとケエアウモク通りとの間にパーバアという名の公園があります。1970年代、この辺りにホノルル警察の運転免許試験場がありました。ホノルルに長く住んでいる人は覚えておられるかも。
(2019年8月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む