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第23回【ワイリー・ストリート】ハワイ王国外務大臣 日本との関係も

 

 

ロバート・C・ワイリーはスコットランド生まれ。ハワイ王国の外務大臣を務めた人です。

 ホノルルのダウンタウンから日本国総領事館やマウナアラの王家の墓地の前を通り、山に向かって真っすぐ伸びるヌウアヌ通りがパリ・ハイウエイに接する交差点から、エヴァ(西)方向に向かう道が、ワイリー通り。マエマエ小学校がある道です。このワイリー通りがパリ・ハイウエイに接する東側、ヌウアヌ川沿いに彼の家があったことが知られています。

 この通りの名になったワイリーはグラスゴー大学を卒業した医師で、船医になり南米やインドにも住み、1844年にカメハメハ3世の治めるハワイに来島。3世の良き助言者であった米国人、ゲリット・P・ジャッドの後任として外務大臣に就任しました。カメハメハ4世、5世の時代も、そして、1865年に67歳で亡くなるまでずっと、王国の外相を務めました。

 ワイリーは、カウアイ島北部ハナレイ湾近くの土地を入手し、砂糖耕地の農園主にもなっています。カメハメハ4世の妃、エマと息子のアルバート王子がその農園を訪れたことを記念し、その土地をプリンスビルと名付けました。現在は高級リゾート地になっている地域です。

 ハワイ王国後期の経済は砂糖生産が主流になり、1860年代には王国の輸出第1位の産業になります。

 砂糖耕地では、ネイティブハワイアンの人口減少も影響して人手不足が深刻化。労働力を国外から受け入れることになり、1852年に初めて中国からの労働者が来島しましたが、どうやら農地には定着しなかったようです。そんな中、1860年にサンフランシスコからの帰路、咸臨丸が薪水の補給のためにホノルルに寄港。その際カメハメハ4世とエマ王妃を表敬に訪れた木村摂津守喜毅に、4世は日本からの移民の提案をしています。このときのお供の一人は勝海舟、通訳は仲濱万次郎でした。

 徳川幕府は1866年(慶応2年)に日本人の海外渡航を初めて認めました。ハワイ王国総領事となったオランダ系米国人ユージン・ヴァン・リードが横浜と江戸で移住希望者を集めました。これが後に『元年者』と呼ばれる150名ほどの日本初の移民で、1868年に来布。その数年前まで王国の外務大臣を務めていたワイリーが、砂糖キビ畑での労働者として日本からの移民受け入れにも関わっていたことがうかがえます。

 ロバート・ワイリーは、彼の名を冠した道に近いマウナアラの王家の墓地に王族と共に葬られている数少ない欧米人の一人。ハワイ王国を列強の圧力から守り、王国のために尽くした人であったことが分かります。

 現在もハワイ州旗として使われているハワイ王国国旗がたなびくマウナアラの王家の墓地は、平日であれば一般の人も訪問可能です。

 

(2019年7月1日掲載)

執筆 David

◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む

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