2017年に創業100周年という節目を迎えたハワイの名門ホテル・ハレクラニ。「天国にふさわしい館」と呼ばれ、世界の名だたるラグジュアリーホテルの中でも、ひときわエレガントな雰囲気で、時代を経てなお世界のセレブを魅了している。しかしながら、ハレクラニの変遷の歴史を詳しく知る人は意外にも少ないのではないだろうか。そこで、ハワイを代表する名門ホテル、ハレクラニの成り立ちをさかのぼってみた。
(写真提供:ハレクラニ)
さかのぼること紀元前、美しき楽園を求めて南太平洋から遥々やってきたポリネシア人たち。彼らの一部は、マノアの渓谷から豊かな水が流れ込む海に面した最も美しい場所、つまり今のハレクラニが建つ場所を定住地として選んだ。やがて、ネイティブハワイアンと呼ばれるようになった彼らは、その海岸の木陰にカヌーを保管し、漁に出るようになる。現在、そこは、グレイズビーチと呼ばれ、ハワイ語で「カヴェヘヴェヘ」と呼ばれる癒やしの水が湧き出ている。
1883年、そのワイキキの地にロバート・ルワーズが2階建てのビーチハウスを建てた。これが今日のハレクラニ・メインビルディングの場所となってる。
ルワーズは、漁から戻った地元の漁師たちに、彼のビーチハウスで漁で疲れた体を癒すようすすめた。そこには、ルワーズと漁師たちの心のこもった交流があった。
やがて、彼らはルワーズ一家の住む家を「ハレクラニ(天国にふさわしい館)」と呼び始めた。ちなみに、カラカウア通りに交差してハレクラニホテルの真正面に続くルワーズ通りは、彼の名前にちなんで付けられた。
1907年、ルワーズはその邸宅をホノルルのジャーナリスト、エドワード・アーウィンに貸し、バンガロー5棟と本館1棟からなる「ハウツリーホテル」という名の長期滞在者向けのレジデンシャルホテルに改装した。
10年が過ぎ、実業家クリフォード・キンバルがホテルを引き継ぎ、正式に「ハレクラニ」と名付けた。今から100年前の1917年のことだ。当時は21の客室があり、最大40名のゲストが宿泊できた。1926年には海軍将校だったアーサー・ブラウン氏の邸宅を買い取り、敷地を拡大。その場所には現在、フラで人気のオーシャンフロント・ダイニング「ハウス・ウィズアウト・ア・キー」が建つ。この頃、書かれた小説『チャーリー・チャン』にも登場した「ハウス・ウィズアウト・ア・キー」は、家に鍵をかける必要のない当時の治安の良さを表している。
この頃は、大型客船で富裕層がバカンスに訪れ、なかにはスタッフや車まで伴ったという逸話があるほど贅沢な時代だった。しかし、世界恐慌が起こり、株が暴落。ハワイは、本土の大恐慌の悲惨な影響を受け始めた。それでも、ハレクラニは決してお客様へのホスピタリティーの質を落とすことはなかったという。
まもなく別の暗闇がハワイに覆いかぶさってきた。1939年の第二次世界大戦、1941年の太平洋戦争の開戦に伴い、戒厳令の発令と大規模な停電はハワイの日夜を支配し、ハワイへの観光客は激減。それでもハレクラニのホテル客室はすぐに軍事関係者や特派員の宿泊で満室になったという。ハレクラニの創設者クリフォード・キンバルの死後、残された妻とその2人の息子がビジネスを引き継いだ。
1950年代から1960年代にかけてのハワイは、ジェット機時代を迎えて、劇的な旅の変化を経験した。1959年にハワイがアメリカ合衆国50番目の州になり、ハワイへの観光客は急増。ディオール、ランバン、ニナリッチなどの有名フランス人デザイナーによる全米初のファッションショーなど、華やかなイベントが多数開催された。クラーク・ゲーブルや加山雄三を始めとする当時の日本とアメリカを代表するスターもハレクラニを訪れた。
1962年の妻ジュリエット・キンバルの死後、息子たちはホテルをシアトル出身の資産家ノートン・クラップ家に売却。そして、1981年、日本の三井不動産がハレクラニをクラップ家から買い取り、新生ハレクラニとして1984年にオープン。ここに新時代の幕が開けた。ハワイらしい温かみのあるホスピタリティーと伝統を守りつつ、世界に通用する超一流ホテルを目指す、ダイナミックな挑戦が始まったのだ。
当時の会長兼最高経営責任者である奥田周平氏は、ゲストのために記憶に残る美しい温水プールを作ることを決意。イタリアから番号の付けられた120万個のガラスタイルを取り寄せ、まるでジグソーパズルのように、タイルをモザイク状にプールの底に貼り付け、大輪の蘭(オーキッド)の花を表現した。太陽の輝きや星の光でタイルが反射し、表情の変わるプールを見た奥田氏は「美しさのあまり気絶しそうになった」と回想している。
また、ホテルの玄関に立つ2つの「マヒオレ」は、インドで採石された10トンもの緑の大理石を日本の四国に送り、彫刻家イサム・ノグチの許可を得て、彼の石切機を用いて創り上げた一対の巨像だ。ハワイの王族が着用した羽のヘルメットをかたどりハワイへの忠誠心を表している。
1991年の湾岸戦争時には、戦地に赴く初のハワイ部隊を称えて、ホテル・ハレクラニの従業員たちが有名なキアヴェの樹の周りに黄色のリボンと幸運を象徴するティの葉を結び、無事の帰還を祈ったという逸話がある。
800名以上の現ホテル従業員のうち、100名以上が新生ハレクラニの誕生に尽くしてきた。今日のハレクラニは、1世紀も続く愛とおもてなしの精神を守りながら、お客様に安息と至福の時を迎えてもらえるよう挑戦し続けている。
想像してほしい。100年前の1917年、海辺に建つバンガローとキアヴェの大木。プルメリアの甘美な香りに包まれながら、ダイヤモンドヘッドを背景にまどろむ旅人。おもてなしの気持ちにあふれたホテルの従業員が、静かに控えている。
そして、現在。100年経った今も変わらず存在するダイヤモンドヘッド。ハレクラニのホスピタリティーは100年前と変わることなくそこに息づき、世界で絶賛される名門ホテルへと昇り詰めてきた。今もなお、スタッフ全員の心の中に行き届いたホスピタリティーが存在し、「お客様をおもてなししたい」という彼らのサービスは細やかで温かい。
そんなホテル・ハレクラニの従業員のひとり、2017年で88歳になるメルバ・ディメロさんは、「ハレクラニには定年退職はありません。山の向こうのカフルウから車で1時間半かけて通勤していますが、毎日働きに来るのが本当に楽しいの」と笑顔で語る。ゲストやスタッフの温かさに触れたくて、34年も勤務しているという。普段は、電話のオペレーターの仕事がメインだが、毎週金曜には宿泊者限定の「バック・オブ・ザ・ハウス」ツアーのガイドを担当。ホテルの舞台裏を案内するこのツアーは、キッチン、ランドリー、ハウスキーピング、ベイカリー、宴会場、ルームサービス、フラワーショップ、倉庫など、ホテルを支える裏側を覗き見できる。ホテルの舞台裏を見られても構わないというハレクラニの自信と、宿泊中のお客様の好奇心を満足させたいというメルバさんのサービス精神が感じられる。
ハレクラニの至る所で目にする美しいフラワーアレンジメント。それを28年間担当しているのが、アイリーン・ベカムさんだ。1989年にハレクラニに就職。以来ずっと、フラワーショップで働きながらホテル館内の生け花を担当している。「ハレクラニは私の人生であり、家族です。そして、生け花は人々に喜びを与える素晴らしい仕事。草月流の教えからそれを学びました」と語る。草月流の理念である「創造の喜びのために」とハレクラニの理念「すべてはお客様のために」の両者をコンセプトにしたハレクラニの優雅な花の演出は、エレガントでおもてなしの心にあふれている。
ところで、彼女もまた、オアフ島の西に位置するコオリナから朝2時間かけて通勤している。交通渋滞をものともせず、ハレクラニを目指して通い続けるメルバさんとアイリーンさん。どうしてもたどり着きたいそこにはオハナ(家族)の愛が待っているからだろうか。
最後に、歴史ツアーを担当しているヒイナニ・ブレークスリーさん。彼女が語るハレクラニにまつわる話は興味深く、過去と現在が繋がっていく。彼女の一つ一つの言葉には、ハワイへの愛とハレクラニの魅力、それらをゲストに伝えたいというホスピタリティーにあふれている。
創立100年、随所にホスピタリティーが行き渡った「天国にふさわしい館」 は、これからも時代のニーズに寄り添いながらも、時代に振り回されることなく、静かに華麗なる進化を遂げていくのだろう。
2199 Kalia Road, Honolulu, HI 96815
☎ 808-923-2311
▶ www.halekulani.com/jp/
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(‘Eheu Summer 2017号掲載)
※このページは「‘Eheu Summer 2017」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。