ハワイ独自の文化であり、芸術品とも言えるアロハシャツ。この記事ではハワイのアロハシャツの歴史やルーツを探るため、『アロハシャツ』の著者であり、ヴィンテージ・アロハシャツの蒐集家としても知られるハワイのデール・ホープさんに話を伺った。
(Text: Yurie Sakakibara, Photos: Akira Kumagai)
アロハシャツはアロハ精神や良い思い出につながる持ち主の思い入れが深い芸術品(デール・ホープ)
子どもの頃からハワイでアロハシャツになじみ、長年アロハシャツの製造販売に携わるデール・ホープさん。『アロハシャツ』という著書もあり、ヴィンテージ・アロハシャツの蒐集家でもある。アロハシャツの重鎮として知られるホープさんのハワイの自宅を訪れた。
デール・ホープさんの自宅は、パロロの山奥にある。道路の名前も住所番号もなく、普通の地図にはそこにたどり着く道さえも載っていない山奥の奥にある。車1台がやっと通れるくねくねした山道を通って、うっそうとした木々に囲まれたホープさんの家に着くと、「迷わずに来られましたか?」とホープさんが出迎えてくれた。
ホープさんは、衣類製造業を営む家に生まれ、高校卒業後、父親の会社でアロハシャツを作って売るようになり、21歳の時にはすでに自分のブランドを立ち上げていた。以来、アロハシャツのアートディレクターとして数々のアロハシャツを世に送り出している。ホープさんに、アロハシャツの起源を尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「アロハシャツは、日本の生地が無かったらできなかったんですよ。アロハシャツの誕生には諸説ありますが、1920年頃、学生たちがダウンタウンの仕立て屋で日本の着物の生地を買って帰り、お母さんにシャツを作ってもらったのが始まりです。ですから、一番初期のアロハシャツには、鶴や虎などの日本風の図柄が描かれていました。
ハワイ・ホノルルには、当時たくさんの仕立て屋がありましたが、宮本孝一郎さんの武蔵屋や、エラリー・チャンさんのキング・スミスという店がアロハシャツの仕立て屋として有名になりました。当時の武蔵屋の広告には『アロハシャツの仕立てや、既成のアロハシャツを95セントから販売』と載っています。今の値段にすると、95ドルくらいですかね」とホープさん。
さらに、アロハシャツの誕生に大きな関わりがあるハワイの日系人がもう一人いるという。
「沖縄系帰米2世のゼンパン・アラカワさんは、独学で裁縫を習い、パラカという青と白のチェックのシャツを作って75セントで売り始めたのです。パラカは19世紀にハワイに来たイギリスやアメリカの船乗りたちが、フロックコートという上着を着ていたことにヒントを得て作られたと言われています。綿製で、厚手で丈夫なので、ハワイの砂糖耕地で働く労働者やハワイのカウボーイのパニオロたちが着るようになりました。パラカはローカルの作業着だったので、パラカを着ることはカマアイナ(ハワイ語で長年ハワイに住む地元民を意味する)の象徴のように考えられていました」
和風図柄に、青と白のチェックのパラカ。それがどのようにフラダンサーやヤシの木などのハワイらしいアロハシャツになったのだろうか。
「戦前は、日本製生地の富士山、松竹梅、鯉などの図柄が主流でした。でも戦争になり、日本から生地を輸入することが難しくなったので、ハワイで生地印刷をするようになりました。ですから、富士山がダイヤモンドヘッドになり、松がヤシの木になり、梅がハイビスカスになり、鯉がカジキなどにとって代わり、ハワイらしい図柄のアロハシャツが作られるようになりました」
戦前、観光客に好まれたアロハシャツは、戦時中には休暇でハワイを訪れた軍人たちが買って帰り、彼らにより本土に広められた。ハワイのアロハシャツが、世界的に知られるようになったのは、有名人の影響力が背景にあるとホープさんは言う。
「オリンピックの水泳で金メダルを取ったデューク・カハナモクは、アロハシャツを世界に広めた人の一人です。サーフィンの父と呼ばれる真のスポーツマンですし、背が高く、着こなしも上手いので、彼のアロハシャツ姿はみんなの憧れの的でした。そこに注目した本土のシスコ社が、彼と提携してアロハシャツを作り、デューク・カハナモク・ブランドを立ち上げました。彼はスポークスパーソンとして同社のイベントなどに登場して大成功を収め、アロハシャツは世界中に知られるようになりました。
エルビス・プレスリー、フランク・シナトラ、ジョン・ウェインなどの歌手や俳優もアロハシャツを見事に着こなしたので、ますます脚光を浴び、トルーマン大統領やアイゼンハワー大統領までも、公共の場でアロハシャツを着るようになったのです」
アロハシャツの蒐集家としても知られるホープさんに、お気に入りのアロハシャツを見せてくださいと尋ねると、次から次へと見事なアロハシャツを目の前に広げて見せてくれた。一体何枚アロハシャツをお持ちかと尋ねると、ニヤリと笑う。
「実はそのことで妻と賭けをしたことがあるんですよ。私は100枚くらいだと思っていたのですが、妻はもっとあると言うので、家のあちこちに収納してあるアロハシャツを数えてみたら800枚以上ありました。賭けに負けて、高価な寿司をおごるはめになってしまいました(笑)。
ずっとアロハシャツにかかわっているので、人から頂いたりしますし、良いものを見ると欲しくなってしまいます。父は、アロハシャツのビジネスは芸術を売ることだと言っていましたが、私はアロハシャツは芸術品だと考えています。ですから、優秀なアーティストと組んで、着る人の心に響くアロハシャツ作りを心がけてきました。
アロハシャツはハワイの象徴です。見ているだけでハワイを連想させ、持ち主の思い入れの深いものです。アロハシャツを着ることは、ハワイへの愛着の証で、アロハ精神を着ることです」とホープさん。
アロハシャツに囲まれて生活し、アロハシャツをこよなく愛するホープさん。彼のアロハシャツを見る目は、目に入れても痛くない子どもを見るようだった。
衣類製造業を営む父と、生地製造の仕事に携わった母のもとにホノルルで生まれ育つ。プナホウ高校卒業後、父の会社でアロハシャツを製造販売するようになる。1974年、21歳の時に自身のブランドHRHを立ち上げる。その後、Local Motionのアロハシャツを作るようになり、Hawaiian Styleブランドの成功を経て、87年アロハシャツメーカーのKahalaを買収。90年に同社を売却するが自身はアートディレクターとして同社に残る。現在は、Patagonia、Quiksilverなどとの共同制作に携わるアロハシャツの重鎮。
(‘Eheu Autumn 2015号掲載)
※このページは「‘Eheu Autumn 2015」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。