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人気コラム

  • 2019.7.10

デック

    ハワイのモノの質の向上には目まぐるしいものがある。アイランドスリッパ、シグ・ゼーン、マナオラ 、ファイティングイール、ビッグアイランド・キャンディーズ、ハワイアンホーストなどフォワードルッキングな製品やコンテンポラリーあるいは時代を反映したスタイルを展開する多くのローカルブランドが次々と名をあげている。ひと昔前までは、旅行者のカップルが飛びつく派手なハイビスカス柄のアロハシャツ(結局ローカルはそんなものを着ないのだとすぐに気づいてしまうのだが)のように、メイド・イン・ハワイのものはやたら安っぽいものばかりに思えたのを憶えている。茶色の紙で包み、ラフィアをリボン替わり […]

  • 2019.7.19

Photographer喜納貴子

    人生の鍵となるサーフィンに幸せをもらい、救われて・・・   私にとってサーフィンは人生のキーポイントです。高校卒業後、2003年にハワイの大学へ進学。すぐにサーフィンを始めました。それまではボディーボードをしていて、サーフィンにずっと憧れていたんです。  サーフショップでインターンとして働き、そこで出会ったのがプロサーファーである今の夫です。結婚後、夫は日本のグランドチャンピオンとなった一方で、気象予報士の資格を取得。その仕事の関係でモンタナ州に5年間暮らしました。海から程遠いこの地でチャレンジしたのがリバーサーフィン。大きな川では、春になると山から雪解け […]

  • 2019.7.19

JAL PAK 副マネージャー 笹澤 勇悟

    ハワイの海で学んだ〝調和〟が生きるヒントにつながりました   子どもの頃から毎年冬は家族全員で雪山にこもってスキーをしていました。本格的にスノーボードもするようになっていた20歳のとき、夏休みに海へ行き、「サーフィンも似てるからできるだろう」とチャレンジしたのが初めてのサーフィンでした。  いきなり始めたのはショートボード。スキーやスノボとはまったく違って地面(海)は動くし、斜面ではないので勝手に滑ってはくれない! 今まで体験したスポーツの中で一番難しく、夢中になりました。スノボを止めて、冬も海へ通いました。独学で3カ月間でなんとか波に合わせて横に滑ること […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授 たけお工藤

    かつてのホノルルを回想する   私は1942年にホノルルに生まれた日系3世です。父方の祖父母は熊本県出身で、砂糖プランテーションで働くためにハワイに移住しました。母方の祖父母は福岡県の出身です。子どもの頃はリリハの日系人が多く住む街で育ち、近所にはヨシカワ、シゲタという家がありました。大人も子どもも近所の人はみんな顔見知りで、みんな家族や親戚のような感じでしたから、誰も家に鍵をかけませんでしたし、近所の家に行って冷蔵庫を開けたりしても怒られませんでしたね。  近所の子どもたちと竹馬で遊んだり、一緒にヌウアヌ川に行って、メダカやオオプを獲ったりしました。一度 […]

  • 2019.6.27

アロハ・ステーキ・ハウス

    僕の両親は投資の下手な人たちだった。8トラックカートリッジテープやベータマックステープレコーダー、さらにはヒロの辺鄙な場所に土地を買うなど、まったく賢くない運用ばかりしていた。最近、今は亡き継父が僕に残してくれたそのヒロの土地を買いたいという人が出てきたのだが、オファーはわずか数千ドルにも満たなかった。資産家が亡くなると相続をめぐって大もめになることが多い。家族が崩壊してしまったという話もよく聞く。だから僕はそれを羨ましいとは思わない。   財産のない家に生まれ育ったおかげで、僕は勉強に励み、一生懸命働く大人になった。少なくとも自分的には、おおかた自力でこ […]

  • 2019.6.27

ワイキキティー

    ウエストラインが1インチ増えるごとに、僕はデブネタのジョークを笑えなくなってきている。笑うどころかむしろそれを恐れるようになっている。もしもグランドキャニオンに落っこちたとしたら、途中で挟まって動けなくなってしまうかもしれない。でも仕方がないのだ。なぜかと言うと、ただ単に僕は根っからの食べもの好きなのだから。アーティスティックなプレゼンテーション、うっとりさせられるフレーバーコンビネーション、意表を突いたテクスチャー、珍しい食材。一体全体誰がそれを拒むことができるのだろう?人は巨大な渓谷の狭間を見るために何千マイルも旅するかもしれないが、僕はむしろお腹の中の狭間を埋 […]

  • 2019.7.19

JNプロダクション会長   ジョアン二宮

    真珠湾攻撃の日とホノウリウリ収容所のこと   私は1940年にホノルルに生まれました。母方の祖父母は熊本県の出身で、父は熊本県出身の一世ですので、私は2.5世です。母方の祖父、本田栄蔵は頑固な九州男児で、大の日本びいきでしたから、自宅の寝室には天皇陛下のご真影が掲げてありました。 真珠湾攻撃は、私が生まれた翌年にあったので何も覚えていませんが、後に両親などから当時のことをいろいろと聞かされました。父は仕事に出掛けていて、家に居たのは母と伯母と私だけだったそうです。真珠湾攻撃の後、すぐに敵性外国人の取り締まりが始まり、日本国籍の住民が次々とサンドアイランドで […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授・彫刻家  マモル佐藤

    コロラド、強制収容所、ハワイの思い出   私は1937年にテキサス州エルパソに生まれました。母方の祖父母は広島県の出身です。父は宮城県出身で、18歳のときに英語を学ぶためにエルパソに移住しました。 父は1メートル80センチで筋肉質だったので、その後スマイリング佐藤という名前のプロレスラーになり、10年以上、米本土各地で興行をしていました。 私は、祖父母や父とは日本語で話し、母とは英語で話しました。毎年暮れには近所の日系の家族が集まり、臼と杵で餅つきをして、鏡餅やお雑煮の餅を作りました。 真珠湾攻撃の日は、ロサンゼルスの親戚を訪れていました。海岸に兵士がたく […]

  • 2019.7.19

元ハワイ大学言語技術機関職員   ダニエル・トム

    子どもの頃のワヒアワの思い出   私は1946年にワヒアワに生まれ育ちました。父方の祖父母は中国系1世で母方の祖父母は福島県出身の日系1世ですので、私は日中系3世です(笑)。子どもの頃、家の近所には白人、フィリピン系の家もありましたが、日系人の家庭が多く、東洋系の友達とよく遊びました。 当時は、夫婦で細々とやっている雑貨屋があちこちにあり、マリーゴールド・マーケット、トムズ・グローサリーというお店がありました。学校には皆が歩いて行き、放課後には日系の駄菓子屋やおかず屋によく行きました。まだスーパーマーケットはありませんでしたから、行商の人がよく行き来してい […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  バイロン・ヤスイ

    戦時中や子どもの頃のヌウアヌの思い出     私は1940年にホノルルに生まれた日系3世です。父方も母方も祖父母は広島県出身です。父方の祖父はハワイで床屋をするために移民し、ホテル通りでホノルル・バーバーという床屋をしていました。それまでハワイの理髪師は男性でしたが、祖父はハワイで初めて女性の理髪師を雇いました。 子どもの頃、私の家は在ホノルル日本国総領事館の山側にありました。家の前には防空壕があり、家の地下には父の趣味だった写真の暗室があったので、戦時中は警報が鳴るとそこに逃げました。真珠湾攻撃の日、父は家の前で私と遊んでいたそうですが、日の丸 […]

  • 2019.7.19

元ハワイ議会議員  フレッド・ヘミングス

    カハラ、ハワイカイやデューク・カハナモクの思い出   私は1946年にホノルルで生まれました。母方の曾祖父母はポルトガルのマデイラ島出身で、父方はイギリス・アイルランド系の白人です。父方の祖父は海軍兵で、1927年、パールハーバー赴任を機に家族全員でハワイに移住しました。 子どもの頃、祖父と私の家族はカハラの借地に住んでいました。当時は今のような高級住宅地ではなく、レタスやニンジンなどを耕作する日系の農夫がたくさん住む農地で、祖父は馬を飼っていました。家の裏庭には大きなバニヤンの木があり、兄弟とかくれんぼをよくしました。舗装道路はケアラオル、アウカイ、カハ […]

  • 2019.7.19

元ハワイ愛護協会常任理事  ローラ・トンプソン

    父の酪農業やかつてのニウ・ヴァレーを回想する     私は1925年にホノルルに生まれました。カメハメハ大王の血を引くハワイアンですが白人の血も入っています。父のチャールズ・ルーカスはニウヴァレーで「ニウ酪農場」という酪農業を営んでいました。150頭ほどの乳牛と50頭ほどの肉用牛を飼い、飼料も農場で育てていました。従業員は、牛の飼育人、搾乳者、野外作業者、配達人など、25人ほどいました。 当時アイナハイナには雑貨屋が数件ありましたが、ニウヴァレーには店はなく、ウチの酪農場と養鶏場しかありませんでした。隣のクリオウオウには、と殺場があり、ハワイカイ […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  ドウェイン・プレブル

    幼い頃や徴兵、ハワイとの不思議な縁を想う   私は1936年にカリフォルニア州ナショナルシティに生まれました。私が5歳のときに真珠湾攻撃がありました。母がラジオでそのニュースを知り「日本軍がここにも襲撃に来るかもしれない」と動揺していたのを覚えています。 その日から電気を付けずに生活し、夜、暗闇の中で食事をしたので、母は暗くてよく見えないのを利用して、私の嫌いな野菜を食べさせようとしたのだと思っていました(笑)。 子どもの頃はよく引っ越しをしたのですが、サンフランシスコ郊外のサンタロサ小学校はとてもへんぴな所にあったので、1人の先生が16人の全校生徒を一つ […]

  • 2019.7.19

日本航空客室乗務員1期生  徳子スミス

    戦中・戦後やかつてのハワイを想う     私は茨城県日立市に3人兄弟の長女として生まれました。父は女学校の校長、母は小学校の先生でした。子どもの頃家族で東京に上京したのですが、戦時中は日立市に疎開しました。日立市は空襲があり、飛行機から焼夷弾が次々と落とされるのを見ましたし、食べ物がなくてひもじい思いもしました。生き埋めになった人も見ましたが、自分たちも逃げるのに必死だったので助けられませんでしたね。 戦後、再び家族で東京に移住し、私は文化服装学園に入学しました。モノがない時代でしたから和紙で縫い物の練習をしました。学校の窓もガラスではなく、和紙 […]

  • 2019.7.19

元獣医  クリフォード熊本

    かつてのカリヒや獣医の仕事を回想する     私は1943年にクアキニ病院で生まれ、カリヒで育った日系3世です。父方の祖父母は広島県の出身で、母方の祖母も広島県、祖父は千葉県の出身です。祖父母は典型的な日本の考え方や価値観を持っていました。特に母方の祖母は厳格だったので、「日本人と結婚しなさい」と私と妹に命じましたが、妹は祖母の意向にそむいたので勘当されてしまいました。 母は主婦でしたが秘書や通訳の仕事もし、父は商業用の氷を配達する仕事をしていました。毎朝4時に起きないといけませんでしたが、子どもの頃よく父について行きました。製氷工場に氷を取りに […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  ビクター小林

    かつてのマウイを回想する     私は6人兄弟の末っ子としてマウイ島プウネネに生まれましたが、パイアで育ちました。父方の祖父母は、山口県大島郡の出身で、パイア砂糖プランテーションで働くために1891年にマウイに移住しました。母も山口県大島郡生まれで、実家は絹の帯を染色する家業をしていました。父は二世、母は一世ですので、私は二・五世です(笑)。 炎天下の砂糖耕地での仕事は重労働だったので、祖父母はプランテーションとの2年契約満了後、馬の育成牧場を始めました。祖父母は元歯医者の邸宅を買い、空いた部屋は人に間貸ししていました。 パイアというのは「うるさ […]

  • 2019.7.19

陶芸家   エスター・ノーウェル

    かつてのホノルルを回想する   私はオハイオ州に生まれましたが、2歳のときに母に連れられてハワイに移住したのでオハイオのことは何も覚えていません。父はスイス系アメリカ人ですが母の先祖のことはよく知りません。今98歳なので96年間ハワイに住んでいますから、自分ではローカルだと思っています。 子どもの頃はパロロのアヌヘア通りに住んでいました。今は親が車で子どもを学校に連れて行きますが、当時は皆が歩いて学校に行きました。私は白人ですが、近所には日系人やフィリピン系の人など、さまざまな民族の人が仲良く住んでいたので、学校にもいろんな人がいました。 まだ近所にスーパ […]

  • 2019.7.19

グラフィックデザイナー  モミ・カジメロ

    かつてのハワイ島やホノルルを回想する     私は、ハワイ島ヒロの北にある小さな村、ペペエケオに生まれました。父は沖縄系日系人の修理工で、母はイギリスとハワイアン系で、裁縫婦でした。私は幼少の頃、ペペエケオの母方の祖父母に育てられ、同じ家に叔父や叔母、従兄弟も住んでいました。当時ハワイアンの家庭では、広い意味でのオハナ(家族)という考え方があり、祖父母や親戚の人に育てられることはよくあることでした。 キラウエア火山が噴火したときには、母方の親戚が火山の女神ペレのためのお供えを火山まで持って行ったのを覚えています。家の近くに収穫したサトウキビを製糖 […]

  • 2019.7.19

建築家  鈴木敏資

    予備軍に志願したときのことやかつてのハワイを回想する   私は、1942年に福岡県に生まれました。子どもの頃から建築模型を造るのが好きで建築に興味があったので、知人の家に下宿をしながら法政大学に通い建築を専攻しました。大学卒業後は他の人とは違う経験をしたいと思い、米国大手のダニエル・マン・ジョンソン・メンデンホールの東京支社に2年勤めました。 外資系の会社の雰囲気に触れてから、苦労してもアメリカで勉強したくなり、インディアナ州の学校に通いながら建築設計事務所で働くことができる会社を見つけました。永住権は会社が申請してくれたのですが、ベトナム戦争の時代だった […]

  • 2019.7.19

雅楽講師・天理教ハワイ伝道庁主事  社本正登司

    ハワイで雅楽を教えることになったいきさつを回想する   私は、1934年に愛知県江南市に生まれました。5歳の時、雅楽をたしなんでいた父から竜笛(りゅうてき)という横笛を「吹いてみさない」と言われたのです。吹いてみたら良い音が出て、嬉しくて雅楽を始めました。 雅楽は世界最古のオーケストラですが、日本人でも知らない人が多いですね。雅楽では、篳篥(ひちりき)、竜笛(りゅうてき)、笙(しょう)、琵琶、火焔(かえん)太鼓、鞨鼓(かっこ)、筝(そう)という楽器を使います。 日本語には雅楽にまつわる言葉がたくさんあります。雅楽では「えんばい」と言いますが、“塩梅”は、音 […]

  • 2019.7.19

編集者・芸術家  ローラ・ルビー

    かつてのカパフル、モイリイリを回想する     私は1945年にロサンゼルスに生まれ、1974年にハワイに来ました。飛行機から初めて見たハワイは、海の色が印象的で、岸辺に近くなると青色からエメラルドグリーンに変わるのがとてもキレイだと思いました。 当初はダイヤモンドヘッドの麓のカパフルに住んでいました。カパフルは、いろんな民族の人が住む地域で、英語では「Mom and Pop store」と呼ばれる、夫婦で細々とやっているようなよろず屋があちこちにありましたが、今ではそんな店はほとんどなくなってしまいました。 1980年代にモイリイリに引越し、近 […]

  • 2019.7.19

古流なぎなた直心影流師範  三浦花枝

    ハワイに来る縁となったなぎなたとの出会いを回想   横浜に生まれましたが、4歳のときに父が他界し、私は水戸市の夫婦に養女にやられました。養父母は方言が強く、養母は自分のことを「オレ」と呼んでいました。初めはすぐ家に帰れると思っていたので、寂しくて泣いてばかりいました。そんな私を見た近所の人がなぎなた道場に連れて行ってくれたので、なぎなたを始めました。 なぎなたは日本古来の武道で、江戸時代には僧侶と婦人の武器でした。戦前は婦女子のたしなみとして学校でも教えていました。道場にいるときは寂しいと思いませんでしたし、「少女の友」という雑誌になぎなたをする私の記事が […]

  • 2019.7.19

シャミナード大学助教授  フェイス・ミルンズ

    東海岸、スウェーデン、かつてのノースショアを回想する   私は、マサチューセッツ州ボストン市郊外のウェークフィールドという町に生まれました。母はスウェーデン系アメリカ人で、父はスコットランド系アメリカ人です。家では犬を飼っていて、幼稚園には犬と一緒に歩いて行きました。今では5歳の子どもが犬と一緒に歩いて幼稚園に行くなんて考えられませんが、当時は犯罪が少なかったので親も心配しませんでした。 両親が離婚したので、私と兄2人は母に育てられ、マサチューセッツ、コネチカット、カリフォルニアなど、あちこちに引っ越しを繰り返しました。私の育ったボストン郊外には森や湖があ […]

  • 2019.7.19

FraisVie Wedding CEO三浦 雅

    海の中を山の上から見て知る俯瞰して見ることの大切さ     9歳のときに初めてハワイに来て、ハワイっていい! サーフィンしてみたい! と思ったのがサーフィンを始めたきっかけです。帰国後、大阪の自宅から車で1時間ほどの場所にある和歌山県の磯の浦というサーフィンが有名なビーチで始めました。 1998年に、当時日本で勤務していたブライダル会社でハワイ支社を立ち上げることになり、ハワイに移住しました。海がこれほどまでに近い環境ですから、頻繁にサーフィンをするようになりました。あれから20年間、今も海へ通う日常です。でも海の中は非日常。波に押されて海の上を […]

  • 2019.7.19

創作居酒屋みのりBy塚田農場 副料理長   藤永一郎

    小笠原や福島の海を見てきたから気付くハワイの素晴らしさと課題     アメリカの有名なサーファー、ケリー・スレーターに憧れて、同世代として20歳のときにサーフィンを始めました。モテたい! と思ったのも理由の一つです(笑)。 26歳のときに、小笠原諸島の父島へ移住しました。東京の竹島桟橋から島へ行く船は一週間に1便。人口が2000人程しかいない小さな島です。ここで調理を生業にするようになり、他にもハマチの養殖を成功させたり、無人島でヤギ狩りをしたり、サバイバル生活をしていました。このとき無人島でのサーフィンも経験しました。きっとそこでサーフィンをし […]

  • 2019.7.19

ジャルパック カスタマーサービス 部長藤田鉄哉

    サーフ天国ハワイの恩恵をたっぷり享受できるスポーツがサーフィン   小学生の頃から本格的にサッカーをしていてスポーツは大好きでした。サーフィンを始めたのは19歳のとき。兄に神奈川県茅ヶ崎の海へ連れて行ってもらったのがきっかけです。 就職した旅行会社では、カナダへのスキーツアー添乗の機会が多く、このとき滑っていたのは海ではなく、もっぱら雪山でした(笑)。その後ジャルパックへ就職し、ハワイに10年間駐在しました。1年中サーフィンを快適にできるハワイはまさにサーフ天国だと思いました。 成田空港へ転勤となり、休日は1時間かけて九十九里の海へ通う生活に。そして5年前 […]

  • 2019.7.19

コナ・ベイ・ハワイ ストアマネージャー   佐々木 克

    海で自然の流れを感じるように人生の流れを感じて生きたい   サーフィンを始めたのは2014年。研修ビザでハワイに滞在していたとき、知人にボードをもらったのがきっかけでした。もともと興味はあったのですが、地元の鳥取は冬にしか波が上がらないところでしたし、学生時代に引っ越した大阪は海から3時間。そんな環境下で始める気にはなりませんでした。でもここハワイは海まで自転車で5分! これはチャンスだと思いました。 一旦帰国し、2017年にハワイへ移住。今度は本格的にサーフィンをしようとボードを買いました。それ以来海に通っています。 僕のサーフィンとの付き合い方は、時間 […]

  • 2019.7.19

ラニヴァイ・ディズニー・スパ マッサージセラピスト ベイ 玲奈

    仕事の疲れもストレスも海で浄化パワーチャージしたらシェア!     幼少期はシドニーに住み、帰国後は神奈川県の江ノ島の近くにある湘南学園へ。アメリカ人と結婚した後はサンディエゴに住んだりして、海には縁がありました。ところが妊娠出産などのタイミングが重なって、サーフィンデビューはなかなかできませんでした。2004年にハワイに引っ越し、子どもがプリスクールに入り、ついに念願のサーフィンをスタート。海に入っているだけで楽しくて、夢中になりました。 サーフィンが生活の一部になった頃、一旦帰国。日本での4年間は真冬でも海に通いました。ハワイはサーフィンにと […]

  • 2019.7.19

Peace Cafe アシスタントマネージャー   ドミニク・コーデル

    サーフィン、仕事、あらゆることをきっかけとして学ぶことが楽しい!     ホノルル生まれ、育ちはラスベガスです。体を動かすことが大好きで、サッカーやレスリング、水球、マウンテンバイクやクロスフィットなどいろいろなことをしてきました。でもサーフィンだけはしたことがなかったんです。 2年前の17歳のとき、カリフォルニアへ行き、ハンティントンビーチで初めてサーフィンをしました。ラスベガスは砂漠なので、ずっとサーフィンに憧れていたんです。家族が見守る中、1日中一人で海に入っていました。ボードの上に立っては海に落ちるという繰り返しでしたが、1日が終わる頃に […]

  • 2019.7.19

曹洞宗ハワイ別院正法寺僧侶    星野真隆

    サーフィンと座禅は、心がリラックスする瞬間が通じています     ハワイのお寺に配属されて引っ越して来たのが2015年。もともと海とは縁がなく、サーフィンへの興味どころか日焼けするのが大嫌いだったのですが(笑)、休みが平日でしたし、一人で特にすることもないという理由でサーフィンを始めました。最初は全然できなかったので楽しくなかったですね。でもユーチューブを見て習いながら海に通い続けるうちに少しずつ波に乗れるようになっていきました。 ハワイの海は本当に気持ち良くて、その中にいるだけでもストレス解消になります。それまで乗れなかった波に乗れるようになっ […]