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人気コラム

  • 2019.8.1

フィンカ・ビューティー・サロン 店長・スタイリスト坂本和也

    2015年のオープンから、今では1カ月先まで予約の取れない人気の美容室に成長した『フィンカ・ビューティー・サロン』。そのサロンを立ち上げたスタイリストの坂本和也さんに、人生の転機について伺った。     就職の第1、第2希望は音楽のレコーディング・スタッフか音響エンジニア。第3希望が美容師。高校3年生の進路相談のときの希望です。友達とバンドを組んでいたので、音楽関係の仕事に就きたかったのですが、同時に髪を染めたり、パーマかけたり、友達の髪の毛をカットをしたりと髪を触るのも好きでした。美容の専門学校を見学したら思った以上に楽しそうで、美容師になるこ […]

  • 2019.8.1

おおきに マネージャー 川端史緒

    介護の仕事から大手企業の会社員、そしてハワイでおにぎり店オープンへ。 「ただいま」という気持ちになるような日本の味をハワイの皆さんに届けたい。     高校卒業後、福祉の専門学校へ進学、介護福祉士の資格を取得し、地元京都の老人ホームに就職しました。設立したばかりの施設だったため、入居者のスケジュールやレクリエーションを考えたり、職員みんなで施設を作り上げたりしました。職員も入居している方も良い人ばかり。自分の祖父母のような感覚で介護させていただきました。気力も体力も日々全力で出し切り、2年後、他の世界も見てみたいと思うようになり、介護の職場をいっ […]

  • 2019.8.1

ベセル・ユニオン

    僕は、ガイドつまり手引き書の意味を基本的に理解してはいるのだが、どうもうまく使いこなせない。特にそれがコンピューターとかスマホのガイドだったりすると、設定中に凍結してしまったり、ガイド自体が古くなっていたり、説明がわかりにくかったり、ヘルプボタンを押すと未解決のまま別のページに移動してしまったりする。セルフガイドはばかげている、と僕は思う。そもそも第三者(著者)からの手助けなのだから、セルフヘルプではなく、単なるヘルプに過ぎない。“セルフ”と言うから問題が生じるのだ。自分で何かをするということは、他人のヘルプなしでやるということ。つまり自分でするのだ。   […]

  • 2019.9.20

ILC & SWELL REALTY LLC 大岡 修

    日本人というよりサーファーであることが自分のアイデンティティー   16歳でサーフィンを始め、尊敬できる先輩たちと出会ってから、サーフィンは人生に欠かせない存在になりました。渋谷にある学校にいても頭の中は海のことばかり。「体調が悪くなった」と保健室を経由して海へ行ったこともありました。  大学時代は「サーフィンをとことんやってからでなくては社会人になれない!」とワーキングホリデーでオーストラリアに1年間滞在。さまざまな生い立ちを持つ同年代の人たちと触れ合い、多様な考え方、価値観があることを知りました。  そんな調子で大学5年間はサーフィン中心。毎年2月はバ […]

  • 2019.7.19

ハワイスパオーナー ハワイ州認定エステティック・インストラクター エツヨ・ソールド

    恵まれた日本での生活を後にして、ハワイに移住。手術・離婚・実家の倒産などを乗り越え、エステティシャンとして後進に技術を指導。   家族みんながエステやマッサージが大好きという家庭に育ちました。父は週に3回はマッサージを受け、母は週3回美容院に通い、姉はフェイシャル好き。そんな家族の影響か、13歳の頃にはお顔のお手入れを開始。化粧水、乳液をつけ始めていました。  高校卒業後、美容全般が学べる東京モード学園に入学。クリエイターの卵たちが集まる学校で、あのときほど自分が田舎者に思えたことはなかったですね。学校も創造性を磨くためにと海外旅行を奨励。私も世界の建築や […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授 アルバート・シュッツ

    幼少の頃のインディアナや昔のホノルルを回想する   私は1936年にインディアナ州北部の小さな田舎町サウスベンドに生まれました。私の父はドイツ系3世で、小学校に行くまでは家ではドイツ語を話していました。父方の曾祖父は1850年にアメリカに移住し、当時は石炭が主要エネルギーでしたから採炭業に携わっていました。  主要エネルギーが石油に代わり始めたのを機に、曾祖父はインディアナ州の農地を買い、牧場を始めました。私はその牧場の近くの農場で育ちました。家ではニワトリやブタを飼い、主にトウモロコシを耕作していました。  私は6歳の頃から農場の手伝いを始め、当時はトラ […]

  • 2019.7.19

布哇大神宮 宮司 ハワイ日系人連合協会 会長 岡田章宏

    明治36年(1903年)に日系移民の心のよりどころとして創建された『布哇(ハワイ)大神宮』。日本の神、ジョージ・ワシントン米初代大統領、カメハメハ大王もまつられる神社の岡田章宏宮司に人生の転機を伺った。   三重県の伊勢神宮から800メートルという場所で生まれ育ちました。実家は祖父の代からお守りやお札を作っていました。そのまま神道を歩みそうですが、兄が家業を継ぐことが決まっていたので、私は大学で経済学を専攻。クラブはボート部。就職は第1志望の企業1社に絞り、そのまま一般企業へ就職するつもりでした。ところが就職面接の当日、電車の事故があり、間に合わなかったの […]

  • 2019.7.19

JALPAK International Hawaii,Inc. President & CEO 栗田甲一郎

    日本初の海外パッケージツアーブランド『ジャルパック』。今ではハイエンドツアーからリーズナブルなツアーまで、その選択肢を広げ、変遷を遂げてきた同社ハワイの社長、栗田甲一郎さんに人生の転機を伺った。       北海道北部の羽幌という町で生まれ、千葉のローカル線小湊鉄道が走る田舎町で育ちました。遠い存在であった海外へ興味を持ち、海外パッケージツアーを扱うジャルパックに就職しました。  東京本社に配属され、1年半はヨーロッパ方面のツアーコンダクターをしました。その後、大阪支店で予約やセールス、東京本社でハワイツアーの企画、経営管理部門へ。異動 […]

  • 2019.7.19

BRUG LLC President & CEO崔 美保

    2013年のハワイ上陸から6年。紆余曲折を経て、今年5月に5店舗目をカハラにオープンさせた北海道発の『ブルグ・ベーカリー』。その復活劇を繰り広げた仕掛け人、崔美保社長に人生の転機を伺った。     人生最初の転機は9歳のときです。24時間テレビで『ウィー・アー・ザ・ワールド』を歌うマイケル・ジャクソンを見て、世界には天才がいる! と思って以来、世界に目が向くようになりました。航空会社に就職し、各国をめぐり、世界の人と触れ合い、今度は外から日本を見つめました。8年後、コンサルティング関係の企業に転職。食品の海外展開を手掛けました。  2009年に上 […]

  • 2019.7.19

日本人料理長就任で,ハワイの食材と和食の技術が融合

      雄大なダイヤモンドヘッドを一望する、クイーン カピオラニ ホテルにある『デック』。日中には青空を、夕方には夕日を浴びて赤く染まるダイヤモンドヘッドを、夜は星空を眺めながら楽しめるメニューが一新された。イタリアンや和食の名店で修業を積んだ久保雅嗣氏が料理長に就任し、手掛けた料理だ。      「地元の食材を最大限に生かしたメニューを作りたい」という久保氏。ティの葉でスズキを丸ごと包んだ蒸し焼きなど、ハワイの伝統と素材の味を重視しながらも、ステーキにはワケギのペーストにゴマ油を加えたオリジナルのチミチュリソースを添えるなど、日本人ならで […]

  • 2019.7.19

今年のマンゴーメニューは 海の幸とマンゴーが共演!

    夏のハワイの恵み、マンゴー。その味を生かしたクリエイティブなメニューを堪能できるのが、『タオルミーナ・シチリアン・キュイジーヌ』恒例の夏季限定マンゴーメニューだ。      今年は〝夏の夢〟を意味する『マンゴー・ソニャーレ・サマーメニュー』と題して、カキとタコにフィーチャー。「甘くねっとりしたマンゴーと魚介の相性は抜群」と話す三村シェフのこだわりはハワイでも希少なゴールデンマンゴーとヘイデンマンゴーを使うこと。    甘みの強いオイスターとマンゴーの濃厚な味にフィンガーライムの塩味をきかせた“オイスター・ミニョッテ”。味わい深いスペイン […]

  • 2019.7.19

ティービーディー… 

    年をとるということは、大変なことだ。近視なので遠くが見えるコンタクトレンズをずっと使用してきたのだが、年とともに近くのものがぼやけて見えるようになり、老眼用レンズもはめることにした。それはよかったのだが、いちいち片目を閉じて使い分けなければならないのが厄介だ。(ちなみに、どうして目を細めるとき、背中を丸くしてしまうのだろう?)この調子で行くと、10年後、僕の体はどれほど働きが鈍ってしまっているのだろうかと想像すると無性に心配になってくる。僕のPR会社のクライアントであるレストラン「TBD…」で最近何度か食事をしたのだが、こういう五感に訴えるマルチセンサリ […]

  • 2019.7.9

第23回【ワイリー・ストリート】ハワイ王国外務大臣 日本との関係も

    ロバート・C・ワイリーはスコットランド生まれ。ハワイ王国の外務大臣を務めた人です。  ホノルルのダウンタウンから日本国総領事館やマウナアラの王家の墓地の前を通り、山に向かって真っすぐ伸びるヌウアヌ通りがパリ・ハイウエイに接する交差点から、エヴァ(西)方向に向かう道が、ワイリー通り。マエマエ小学校がある道です。このワイリー通りがパリ・ハイウエイに接する東側、ヌウアヌ川沿いに彼の家があったことが知られています。  この通りの名になったワイリーはグラスゴー大学を卒業した医師で、船医になり南米やインドにも住み、1844年にカメハメハ3世の治めるハワイに来島。3世の良き助言者 […]

  • 2019.7.9

第22回【タンタラス・ドライブ】ハワイ王国と英国の絆

      英国のヴィクトリア女王の名を冠したのか、それともカメハメハ5世と4世の妹ヴィクトリア・カマーマル王女から名付けられたのか?  ヴィクトリア通りはサウス・キング通りのNBCホール横から山に向かい、トーマス・スクエアとホノルル美術館の東側を通る短い道です。しかしH1フリーウェイの山側にも同じ名の通りがありますので、高速道路が造られる以前はパンチボウルの丘に向かって、もう少し先まで延びていたのでしょう。  名の由来はさておき、この道はどうやら1850年頃には既にヴィクトリア・ストリートと呼ばれていたようです。19世紀半ばのハワイ王国はカメハメハ大王の息子、カ […]

  • 2019.7.10

デック

    ハワイのモノの質の向上には目まぐるしいものがある。アイランドスリッパ、シグ・ゼーン、マナオラ 、ファイティングイール、ビッグアイランド・キャンディーズ、ハワイアンホーストなどフォワードルッキングな製品やコンテンポラリーあるいは時代を反映したスタイルを展開する多くのローカルブランドが次々と名をあげている。ひと昔前までは、旅行者のカップルが飛びつく派手なハイビスカス柄のアロハシャツ(結局ローカルはそんなものを着ないのだとすぐに気づいてしまうのだが)のように、メイド・イン・ハワイのものはやたら安っぽいものばかりに思えたのを憶えている。茶色の紙で包み、ラフィアをリボン替わり […]

  • 2019.7.19

Photographer喜納貴子

    人生の鍵となるサーフィンに幸せをもらい、救われて・・・   私にとってサーフィンは人生のキーポイントです。高校卒業後、2003年にハワイの大学へ進学。すぐにサーフィンを始めました。それまではボディーボードをしていて、サーフィンにずっと憧れていたんです。  サーフショップでインターンとして働き、そこで出会ったのがプロサーファーである今の夫です。結婚後、夫は日本のグランドチャンピオンとなった一方で、気象予報士の資格を取得。その仕事の関係でモンタナ州に5年間暮らしました。海から程遠いこの地でチャレンジしたのがリバーサーフィン。大きな川では、春になると山から雪解け […]

  • 2019.7.19

JAL PAK 副マネージャー 笹澤 勇悟

    ハワイの海で学んだ〝調和〟が生きるヒントにつながりました   子どもの頃から毎年冬は家族全員で雪山にこもってスキーをしていました。本格的にスノーボードもするようになっていた20歳のとき、夏休みに海へ行き、「サーフィンも似てるからできるだろう」とチャレンジしたのが初めてのサーフィンでした。  いきなり始めたのはショートボード。スキーやスノボとはまったく違って地面(海)は動くし、斜面ではないので勝手に滑ってはくれない! 今まで体験したスポーツの中で一番難しく、夢中になりました。スノボを止めて、冬も海へ通いました。独学で3カ月間でなんとか波に合わせて横に滑ること […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授 たけお工藤

    かつてのホノルルを回想する   私は1942年にホノルルに生まれた日系3世です。父方の祖父母は熊本県出身で、砂糖プランテーションで働くためにハワイに移住しました。母方の祖父母は福岡県の出身です。子どもの頃はリリハの日系人が多く住む街で育ち、近所にはヨシカワ、シゲタという家がありました。大人も子どもも近所の人はみんな顔見知りで、みんな家族や親戚のような感じでしたから、誰も家に鍵をかけませんでしたし、近所の家に行って冷蔵庫を開けたりしても怒られませんでしたね。  近所の子どもたちと竹馬で遊んだり、一緒にヌウアヌ川に行って、メダカやオオプを獲ったりしました。一度 […]

  • 2019.6.27

アロハ・ステーキ・ハウス

    僕の両親は投資の下手な人たちだった。8トラックカートリッジテープやベータマックステープレコーダー、さらにはヒロの辺鄙な場所に土地を買うなど、まったく賢くない運用ばかりしていた。最近、今は亡き継父が僕に残してくれたそのヒロの土地を買いたいという人が出てきたのだが、オファーはわずか数千ドルにも満たなかった。資産家が亡くなると相続をめぐって大もめになることが多い。家族が崩壊してしまったという話もよく聞く。だから僕はそれを羨ましいとは思わない。   財産のない家に生まれ育ったおかげで、僕は勉強に励み、一生懸命働く大人になった。少なくとも自分的には、おおかた自力でこ […]

  • 2019.6.27

ワイキキティー

    ウエストラインが1インチ増えるごとに、僕はデブネタのジョークを笑えなくなってきている。笑うどころかむしろそれを恐れるようになっている。もしもグランドキャニオンに落っこちたとしたら、途中で挟まって動けなくなってしまうかもしれない。でも仕方がないのだ。なぜかと言うと、ただ単に僕は根っからの食べもの好きなのだから。アーティスティックなプレゼンテーション、うっとりさせられるフレーバーコンビネーション、意表を突いたテクスチャー、珍しい食材。一体全体誰がそれを拒むことができるのだろう?人は巨大な渓谷の狭間を見るために何千マイルも旅するかもしれないが、僕はむしろお腹の中の狭間を埋 […]

  • 2019.7.19

JNプロダクション会長   ジョアン二宮

    真珠湾攻撃の日とホノウリウリ収容所のこと   私は1940年にホノルルに生まれました。母方の祖父母は熊本県の出身で、父は熊本県出身の一世ですので、私は2.5世です。母方の祖父、本田栄蔵は頑固な九州男児で、大の日本びいきでしたから、自宅の寝室には天皇陛下のご真影が掲げてありました。 真珠湾攻撃は、私が生まれた翌年にあったので何も覚えていませんが、後に両親などから当時のことをいろいろと聞かされました。父は仕事に出掛けていて、家に居たのは母と伯母と私だけだったそうです。真珠湾攻撃の後、すぐに敵性外国人の取り締まりが始まり、日本国籍の住民が次々とサンドアイランドで […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授・彫刻家  マモル佐藤

    コロラド、強制収容所、ハワイの思い出   私は1937年にテキサス州エルパソに生まれました。母方の祖父母は広島県の出身です。父は宮城県出身で、18歳のときに英語を学ぶためにエルパソに移住しました。 父は1メートル80センチで筋肉質だったので、その後スマイリング佐藤という名前のプロレスラーになり、10年以上、米本土各地で興行をしていました。 私は、祖父母や父とは日本語で話し、母とは英語で話しました。毎年暮れには近所の日系の家族が集まり、臼と杵で餅つきをして、鏡餅やお雑煮の餅を作りました。 真珠湾攻撃の日は、ロサンゼルスの親戚を訪れていました。海岸に兵士がたく […]

  • 2019.7.19

元ハワイ大学言語技術機関職員   ダニエル・トム

    子どもの頃のワヒアワの思い出   私は1946年にワヒアワに生まれ育ちました。父方の祖父母は中国系1世で母方の祖父母は福島県出身の日系1世ですので、私は日中系3世です(笑)。子どもの頃、家の近所には白人、フィリピン系の家もありましたが、日系人の家庭が多く、東洋系の友達とよく遊びました。 当時は、夫婦で細々とやっている雑貨屋があちこちにあり、マリーゴールド・マーケット、トムズ・グローサリーというお店がありました。学校には皆が歩いて行き、放課後には日系の駄菓子屋やおかず屋によく行きました。まだスーパーマーケットはありませんでしたから、行商の人がよく行き来してい […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  バイロン・ヤスイ

    戦時中や子どもの頃のヌウアヌの思い出     私は1940年にホノルルに生まれた日系3世です。父方も母方も祖父母は広島県出身です。父方の祖父はハワイで床屋をするために移民し、ホテル通りでホノルル・バーバーという床屋をしていました。それまでハワイの理髪師は男性でしたが、祖父はハワイで初めて女性の理髪師を雇いました。 子どもの頃、私の家は在ホノルル日本国総領事館の山側にありました。家の前には防空壕があり、家の地下には父の趣味だった写真の暗室があったので、戦時中は警報が鳴るとそこに逃げました。真珠湾攻撃の日、父は家の前で私と遊んでいたそうですが、日の丸 […]

  • 2019.7.19

元ハワイ議会議員  フレッド・ヘミングス

    カハラ、ハワイカイやデューク・カハナモクの思い出   私は1946年にホノルルで生まれました。母方の曾祖父母はポルトガルのマデイラ島出身で、父方はイギリス・アイルランド系の白人です。父方の祖父は海軍兵で、1927年、パールハーバー赴任を機に家族全員でハワイに移住しました。 子どもの頃、祖父と私の家族はカハラの借地に住んでいました。当時は今のような高級住宅地ではなく、レタスやニンジンなどを耕作する日系の農夫がたくさん住む農地で、祖父は馬を飼っていました。家の裏庭には大きなバニヤンの木があり、兄弟とかくれんぼをよくしました。舗装道路はケアラオル、アウカイ、カハ […]

  • 2019.7.19

元ハワイ愛護協会常任理事  ローラ・トンプソン

    父の酪農業やかつてのニウ・ヴァレーを回想する     私は1925年にホノルルに生まれました。カメハメハ大王の血を引くハワイアンですが白人の血も入っています。父のチャールズ・ルーカスはニウヴァレーで「ニウ酪農場」という酪農業を営んでいました。150頭ほどの乳牛と50頭ほどの肉用牛を飼い、飼料も農場で育てていました。従業員は、牛の飼育人、搾乳者、野外作業者、配達人など、25人ほどいました。 当時アイナハイナには雑貨屋が数件ありましたが、ニウヴァレーには店はなく、ウチの酪農場と養鶏場しかありませんでした。隣のクリオウオウには、と殺場があり、ハワイカイ […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  ドウェイン・プレブル

    幼い頃や徴兵、ハワイとの不思議な縁を想う   私は1936年にカリフォルニア州ナショナルシティに生まれました。私が5歳のときに真珠湾攻撃がありました。母がラジオでそのニュースを知り「日本軍がここにも襲撃に来るかもしれない」と動揺していたのを覚えています。 その日から電気を付けずに生活し、夜、暗闇の中で食事をしたので、母は暗くてよく見えないのを利用して、私の嫌いな野菜を食べさせようとしたのだと思っていました(笑)。 子どもの頃はよく引っ越しをしたのですが、サンフランシスコ郊外のサンタロサ小学校はとてもへんぴな所にあったので、1人の先生が16人の全校生徒を一つ […]

  • 2019.7.19

日本航空客室乗務員1期生  徳子スミス

    戦中・戦後やかつてのハワイを想う     私は茨城県日立市に3人兄弟の長女として生まれました。父は女学校の校長、母は小学校の先生でした。子どもの頃家族で東京に上京したのですが、戦時中は日立市に疎開しました。日立市は空襲があり、飛行機から焼夷弾が次々と落とされるのを見ましたし、食べ物がなくてひもじい思いもしました。生き埋めになった人も見ましたが、自分たちも逃げるのに必死だったので助けられませんでしたね。 戦後、再び家族で東京に移住し、私は文化服装学園に入学しました。モノがない時代でしたから和紙で縫い物の練習をしました。学校の窓もガラスではなく、和紙 […]

  • 2019.7.19

元獣医  クリフォード熊本

    かつてのカリヒや獣医の仕事を回想する     私は1943年にクアキニ病院で生まれ、カリヒで育った日系3世です。父方の祖父母は広島県の出身で、母方の祖母も広島県、祖父は千葉県の出身です。祖父母は典型的な日本の考え方や価値観を持っていました。特に母方の祖母は厳格だったので、「日本人と結婚しなさい」と私と妹に命じましたが、妹は祖母の意向にそむいたので勘当されてしまいました。 母は主婦でしたが秘書や通訳の仕事もし、父は商業用の氷を配達する仕事をしていました。毎朝4時に起きないといけませんでしたが、子どもの頃よく父について行きました。製氷工場に氷を取りに […]

  • 2019.7.19

ハワイ大学名誉教授  ビクター小林

    かつてのマウイを回想する     私は6人兄弟の末っ子としてマウイ島プウネネに生まれましたが、パイアで育ちました。父方の祖父母は、山口県大島郡の出身で、パイア砂糖プランテーションで働くために1891年にマウイに移住しました。母も山口県大島郡生まれで、実家は絹の帯を染色する家業をしていました。父は二世、母は一世ですので、私は二・五世です(笑)。 炎天下の砂糖耕地での仕事は重労働だったので、祖父母はプランテーションとの2年契約満了後、馬の育成牧場を始めました。祖父母は元歯医者の邸宅を買い、空いた部屋は人に間貸ししていました。 パイアというのは「うるさ […]