いつも賑わっているワイキキの中でも、あまり知られていない通りですが、ハワイ王国時代の歴史がうかがえる道の1つです。
プリンセス・カイウラニ・ホテルの角から、カイウラニ通りをアラワイ運河に向って入っていくと、観光で訪れる人々の姿をめったに見かけない、コンドミニアムが立ち並ぶ静かな住宅地の中に、クレグホーンという名の細い通りに出会います。
ハワイ王国第7代目の王カラーカウアと、8代目の女王リリウオカラニの末の妹にあたるリケリケ王女の夫君、アーチボルド・スコット・クレグホーンにちなんだ通りです。と言うよりは、カイウラニ王女の父と言った方が分かりやすいかもしれません。
クレグホーンはエジンバラ生まれのスコットランド人。若くして父母と共にハワイへ。商業を営んでいた父の亡き後もホノルルに残り、ハワイ王国の国籍を取得。カラーカウア王の時代には15年の長きにわたり王国の議員を務め、その後リリウオカラニ女王からオアフ島の知事に任命され、王国が終るまでその任にありました。
さて、この通りのあたりには「アーイナハウ」と呼ばれたクレグホーン家の邸宅がありました。ハワイ王国最後の王位継承権を与えられたカイウラニは、ここで幼年時代を過ごし、1889年、13歳で英国へ留学。父、アーチボルドはサンフランシスコまで娘に同行しています。
しかし、王国の将来を担う王女への期待とは裏腹に、ハワイ王国はその末路にさしかかります。叔父カラーカウアは米国への併合を模索する西欧人の砂糖業者を中心とした経済界に王権を揺るがされ、後を継いで女王になった妹のリリウオカラニも2年間在位した後、親米派に屈するように王権を放棄せざるを得なくなりました。後継者として指名されていたカイウラニが女王として国を治めることは叶いませんでした。
今でもワイキキの通りにその名を遺すアーチボルド・クレグホーンは、娘のカイウラニ王女が英国から帰国後に若くして亡くなった後もアーイナハウに留まり、ハワイが米合衆国準州の時代、1910年に亡くなりました。
彼は王国を支えた西欧人の一人として、ホノルルのダウンタウンの山手、マウナアラに在る王家の墓地のチャペル地下にカラーカウア系の王族と共に埋葬されています。
(2017年11月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む