H1フリーウエイを西へ。ダニエル K. イノウエ国際空港の次の出口が、真珠湾海軍基地とヒッカム空軍基地への入口につながっています。現在はパールハーバー・ヒッカム ジョイント ベースとして海空軍の共同管理基地になっていますが、その海軍基地の中に在り、航空母艦やイージス艦、リムパック環太平洋合同演習などに参加する各国の艦船が停泊する埠頭に沿って伸びる直線の道が、パールハーバー
ブルバードです。
さて、アメリカ合衆国は真珠湾をいつ頃から使い始めたのでしょうか。話は、歴史は1887(明治20年)にまで遡ります。
ハワイ王国は19世紀半ばまで太平洋捕鯨の中継補給基地として栄えていましたが、ペンシルバニアで石油の掘削が始まると鯨油の価格が暴落。王国経済は砂糖産業により支えられるようになりました。そして、米国への砂糖輸出は王国経済の生命線となり、より多く輸出が出来るように、ハワイ王国は米国との互恵条約締結交渉に力を注ぎます。そして条約締結を公約の1つに掲げて王になったのがカラーカウアでした。第7代の王になり早速ワシントンDCに自らも赴き、念願であった米布間の互恵条約を1876年に成立させ。その後ハワイの砂糖産業は飛躍的に伸びていきました。
ところが、1887年、ハワイ王国は米国から条約の改定を迫られ、砂糖輸出を継続したい小国ハワイは
米国から突きつけられた条件を受け入れざるを得なくなり、以前より国民の間に反対意見の多かった、米海軍による真珠湾の使用権を認めたのでした。
そして王国終焉後、ハワイが共和国としてまだ存続していた1889年に米西戦争が勃発。スペイン領であったフィリピンやグアムの攻略が始まると、太平洋の要としてのハワイの有用性が米国連邦議会でも重要視され、マッキンリー大統領によるハワイ併合案が承認され、ハワイは米合衆国の準州(テリトリー)へと移行していきました。
今年も12月7日朝には、真珠湾攻撃から77年目の式典が行われます。70年以上続いている日米間の平和を今後如何に継続していくかが大事ですが、1941年の日米間の戦争勃発後、両国の狭間に翻弄されながらも米国人として戦ったハワイの日系二世兵士の歴史、100大隊、442連隊、MIS、1399工兵大隊の活躍にも再度注目してみたいところです。ダニエル K. イノウエ氏はじめ、彼らの戦中戦後の活躍無くして、今のハワイの繁栄は無かったと思えます。
(2018年12月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む