ワイキキの裏手に広がるマノアの谷。ハワイ語では「マーノア」と少し伸ばして発音します。プナホウ校のあたりから、この谷の一番奥まで伸びる道がマノア ロードです。
1920年代後半、昭和の始めにアラワイ運河が造られるまで、ワイキキと地続きだった広大な谷、マノア。現在はハワイ大学や住宅地として発展していますが、この辺りは昔、ワイキキに向かってきれいな川が流れ込む、緑豊かなところとして絵画にも描かれています。コオラウ山脈から吹き降りる貿易風がもたらす雨が降り注ぎ、山の頂から流れ落ちる清水は滝を作り土地を潤し、タロイモ(ハワイ語でカロ)やパンノキ(ウル)、バナナ(マイア)、サツマイモの類(ウアラ)等の作物が豊富に実る、農業に適した地域でした。ワイキキの海岸まで続く、ネイティヴハワイアンの共同生活地域「アフプアア」の1つです。
マノア ロードを上がっていくと、緑のコオラウ山脈の峰々から、遥か下の紺碧のワイキキ沖までを見渡せる小高いところにハワイアンの祭祀場「ヘイアウ」の石組みが1つ残されています。その名は「クーカオーオー ヘイアウ」。土地を耕す棒が立つとか、土地を耕すクーの神、植物の成熟などの意味を持つ、豊穣神に豊作を願う祭祀場でした。石組みの下の部分はかなり古く、今からおよそ1千年前に造られたようで、その上に3百年から2百年前に新しい石が積み上げられています。この辺りにはかなり古くから人が住んでいたことが分かります。
ヘイアウが在る場所は、タンタラスの丘の真下にあたる住宅地の一角、マノア ロード2859番地。谷の奥に向かって道の右側(ダイアモンドヘッド側)に、石の塀に囲まれたチューダー様式の大邸宅が在るのに気づかれた方も居られるでしょう。ハワイ王国時代に来島した宣教師の孫が1911年に建てた館で、現在は「マノア ヘリテージ センター」と云うハワイ文化を伝える施設としても使われています。タンタラスの丘にあった火口からの溶岩が流れ、谷の中でも小高くなっていて、周囲が見渡せ景色の良いところです。この邸宅は今も使われており、その庭には予約をしないと入れませんが、そこにヘイアウの石組が残されていて、周囲にはハワイ固有種やハワイアンの生活に有用だった草花もたくさん植えられています。館の裏庭には鉄製の大釜が置かれ、蓮が生けられています。19世紀中頃に鯨を追って太平洋の大海原を航海していた捕鯨船の甲板で、鯨の脂身を煮詰めて鯨油を採るために使用されていた釜です。ハワイアンの屈強な男たちも乗り込んで鯨を追い、日本の周りでも大きな鯨を追っていた船のものだったのかもしれません。
さて、マノア ロードは、家々が立ち並ぶなかを谷の奥深くまで真っ直ぐに続き、湿潤な緑に囲まれた駐車場で終わり、野生の鶏が闊歩するその先はマノアの滝やハワイ大学の演習林へとつながっています。
(2018年9月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む