海外での日本食・食文化の普及に努めてきたSun Noodleの夘木栄人社長は、今年秋に2022年度「日本食普及の親善大使」に任命されました。単身でハワイに渡って1981年に製麺会社を設立し、アメリカにおけるラーメンブームを支え続けてきた夘木社長にお話を伺いました。
ー1981年、20歳のときにハワイで『Sun Noodle』を設立されました。当時のハワイにおけるラーメンはどのような位置付けだったのでしょうか?
当時は3〜4軒しかラーメン店はありませんでした。実家が製麺業を営んでいたので、「ハワイのラーメンの品質を上げてほしい」と要請を受けてハワイに来たのですが、そこで見たのは黒ずんだ麺のラーメンでした。アメリカの粉で作るとそういう色になるのですが、日本とはかけ離れていました。当時のハワイで不動の地位にあった麺といえばサイミンです。私はその存在すら知らなかったので、コシがない汁物というイメージであまりおいしいとは思えませんでした。そのうち、ハワイの食文化であるサイミンは大切にしていく食べ物だということに気付いたのですが…。
ーどのようにハワイに「麺」を広めていったのでしょうか?
日本からのラーメン店が少しずつハワイに展開し始めた時期だったので、それぞれの店に合わせた麺を作ろうと思ったのです。北海道や九州などから進出したラーメン店にお願いして、日本の工場へ伺ってレシピを教えてもらいました。ところがアメリカで入手できる原料で作ると、レシピ通りに作っても同じ味にならないんです。そこでレシピではなく、結果的に同じ味と食感になるように作ることにしました。それは簡単なことではなく、60回以上試作をくり返したこともありました。
一方で、日本の麺がすぐにハワイの人たちに受け入れられるわけでもありませんでした。サイミンが主な麺だったので、「麺が硬い」「おいしくない」と言われるのです。そこで、スーパーマーケットで店頭販売して味見をしてもらいながら、麺の「コシ」を地道に伝えていきました。そうして少しずつ「コシ」という食感も味わいの一部ということが定着していったように思います。
ー2003年にはロサンゼルスに工場を作られました。米本土に進出されたのはどのような経緯からでしょうか?
初めてLAに行ったのは1982年だったのですが、行くたびに「あまりおいしいラーメンがないなぁ」と思っていたんです。麺のゆで方、食べ方なども気になっていました。そんな中、1986年に沖縄そばだけを卸売り業者さんに出荷をする機会をいただきました。コンテナ1つ分を送っていたのですが、あるときLAに進出する日系のラーメン店から「製麺工場を作ってほしい」と声が掛かったのです。自分の目の届かないところで麺を作られるのはどうしても信用できないので難しいと思ったのですが、「今後10年で100軒に展開する」との熱意に応えて決心し、2003年に自社工場を建設しました。当然LAには多くの製麺屋さんがあったので、実績もない会社としては「他が作れないものを作る」、「スープに合う特注麺を作る」ことに徹しました。最初はラーメン店に直販していたのですが、徐々に卸売り業者さんを介して販売するようになり、広まっていきました。
ーニュージャージー州にも工場を新設され、アメリカのラーメンブームの契機ともなったのではないでしょうか?
東海岸に工場を作るきっかけはニューヨークに出荷していた麺の扱いが悪かったことにありました。ラーメンブームの兆しがある中で、日本の上質なラーメンを広めたいと思い、ラーメンの啓蒙活動を掲げて、2012年にニュージャージー州に自社工場を稼働させました。
そして「ラーメンラボ」をマンハッタンにオープンしたんです。日本ナンバー1のラーメンシェフとタッグを組んで、カウンターで彼がラーメンを作る工程を目の前で見て、それを食すというものです。その後、毎月日本から有名な人気ラーメン店を順番に呼んで、期間限定でそのラーメンを食べられることにしました。この企画は反響が大きく、常に行列ができて、メディアでたくさん取り上げていただきました。良かったなぁと思うのは、食べに来るお客さんだけでなく、日本からのラーメン店にとっては海外進出の足掛かりになり、また私たちの大切なお客さまである周辺のラーメン店も招待したことで、彼らのアイデアにも貢献できたことです。実は経営的にはこのプロジェクトは赤字だったのですが、日本のおいしいラーメンの露出が増え、結果的には弊社の認知度も上がることになりました。2017年には工場を移転させて4倍の広さにすることで生産力を高めていきました。
ーパンデミック前まで毎年の成長率は20%。ヨーロッパへも進出し、今年5月にオランダのロッテルダムに工場を開設し、生産をスタートさせました。ここまで日本のラーメンが受け入れられてきた理由はどこにあると思いますか?
創業当時から大事にしているのは「もう1杯食べたいと思うか」ということです。「おいしい」で終わらず、「また食べたい」と思ってもらえる麺を作ることを考えてきました。
もう一つは、保存剤や人工着色料などの食品改良剤を使わないことです。私が24歳のときに子どもが生まれたのですが、自分の子どもに食べさせたくないものを、他の人に食べていただくことはできないと思ったのです。当時の社会に合わせたおいしくて日持ちがして見た目がいいものを作ることもできますが、人として正しい選択をするべきだと思いました。今もその気持ちは変わりません。
ーラーメン以外にこの10年間は山形県米『つや姫』のプロモーション大使もされています。なぜ日本のお米を紹介しようと思われたのでしょうか?
それまではカリフォルニア米を食べていたのですが、知人を通じて初めてつや姫を食べたとき、おいしくてびっくりしたんです。日本の最高級米ですからどのくらいの金額になるのだろうと試算をしてみたところ、1杯約1ドルでした。食べ物は大切なので、こんなにおいしいのなら私たちのように子どもが家を出て夫婦二人の食卓に、1杯1ドルであってもおいしいご飯を食べたいと思う方も多いのではないかと思い、精米機を買って玄米を取り寄せました。
そして、精米したてのお米をスーパーに置いてもらうようにしました。これを機に山形県知事一行がハワイを訪れて、ハワイの皆さんに山形のおいしい名産品を紹介して食べていただく機会も設けられました。また、ハワイの山形県人会と、日本の山形県をつなぐお手伝いをすることもできたので、うれしく思います。
ー創業以来40年余りの間にアメリカのラーメンの質も上がった中で、今後、日本の食文化をどのように普及していかれますか?
これまでも新商品を精力的に提供してきましたが、今はご家庭で気軽に安心しておいしく食べられる麺を考案中です。ホリデーシーズンにラーメンを贈るというご提案もしています。いろいろな形で日本が誇る食文化を普及させていきたいと思います。
インタビュー:ライトハウスハワイ 大澤陽子
このページは「ライトハウス・ハワイ」 2023年12月号掲載の記事を基に作成しています。