マウイの火災の翌日にクラウドファンディングのプラットフォーム、GoFundMe(ゴーファンドミー)に『Pray for Maui from Japan』を立ち上げた岡崎友子さん。被災者のリストを作成し、寄付を募りながら、随時レポートで支援の様子、会計報告などを発信しています。
ーマウイ在住の日本人によって『Pray for Maui from Japan』を、火災の翌日9日の夜に立ち上げられました。日本に対して最も早い呼びかけだったのではないでしょうか?
これは東日本大震災のときの経験が生かされたのだと思います。2011年3月のあの日に震災のニュースをマウイで見たときに「遠くにいても日本人として何かしなくては」と初めて自分が日本人であることを意識しました。寄付を集め始めたところ、マウイ中の日本人を始め島の多くの人たちが加わって大きなムーブメントになったんです。
今回、そのときのネットワークもある一方で、自分の名前を出してお金を集めることへの覚悟も必要でした。でも小さな地元の団体だからこそ、迅速に必要なものに使うお金を回せると思ったので、決意を固めてサイトを立ち上げました。その翌日からは支援活動に走り回っていたので、もしも1日遅れていたらサイトを作る時間は取れなくなっていたと思います
ー東日本大震災の経験は活動にどのように生きていますか?
震災の寄付金がある程度集まったとき、「現地に行った方がいい」と言ってくださった方がいて、宮城県の気仙沼に行ったんです。そこで被災されたご家族と一緒に暮らしながらボランティアをしていたのですが、NPOなどでは個人的な物事には資金を出せない中で、彼らがそのときに困っているものに直接支援できることを実感しました。また、今なら何が次に来るか、何が必要になるかなどの動きが読めるので、早め早めに行動できるんです。気持ちの面では、震災のがれきの撤去のとき、私たちは早く作業を進めようとしていましたが、彼らにとってはがれきはそれまでは生活の一部だったもの。一つずつ見つめながら作業をされていました。そういうことも現地に行ったから分かったことでした。
そうしたメンバーが今回も自然に集まりました。前回の経験で自分の得意分野の生かし方が分かったので、経理、コンピューター、料理など、自分ができることを担当しながら活動をしています。そして、こまめに連絡を取り合いながら、被災された人たちのニーズに沿って日々変わっていく状況に対して迅速に柔軟に対応できる支援を心掛けています。 同時に、体と頭を使うことでお金の価値を倍増させようと思っています。
ー現地の状況や人々の様子、寄付先を「ラハイナレポート」として随時発信されています。その中にあったお金以外のさまざまな支援の形とは、例えばどんなことがありますか?
これまでたくさんのエピソードがあります。火災の翌日、まだラハイナの街に誰も入れず、公的な支援体制が整う前に、モロカイ島からハワイアンの人たちがジェットスキーや船に物資を買って積み込んで、途中で魚を釣って来られました。どこよりも物価が高い島なのに、彼らはそれ以降毎日やって来て、支援が規制されるようになってもなんとかして必要な人に届けていました。また、ラハイナの人たちの生活の一部であったサーフボードが1000本以上焼けてしまったのですが、オアフ島やハワイ島、カリフォルニア州などから新品の板を含めて1000本以上が送られてきました。子どもたちが久しぶりに海でサーフィンをして笑顔を取り戻したその瞬間は私たちまでも癒されました。
一方、物資のハブのようになったサーフショップに来られて何も言えずに店に佇んでいたハワイアンのおばあさんがいらっしゃったんです。「必要なものを持って行ってください」と伝えると、その方はおそらくクムだと思うのですが、お礼にプレ(祈り)をしたいと言い、みんなで円になって手をつないで涙を流しながら祈りました。みんなの祈りが一つになったときのパワーの強さを感じました。お金はもちろんなのですが、祈ること、考えること、声を掛けることがパワーになるということを実感した出来事でした。私たち支援チームですら皆さんからの思いや励ましに元気もらってさらに頑張れるのですから、被災した方々も絶対にそうだと思うのです。
ー若い世代もリーダーシップをとって活動をされていると報告されていましたね?
地元の若手は、どこに連絡すれば事が動くのがを知っているんです。例えば、その一人でマウイを代表するサーファーが、最初の1カ月間は被災地で寝泊まりしながら24時間体制で動き、自分の発信力と影響力を活用して世界中に伝えることで初期の支援活動を進めていました。海で培った精神力、判断力、体力、そしてチームワークによって被災地と他の地域の仲間をつないで、そのときに必要なサポートをするという支援体制を作っていたんです。さらに彼らは子どもたちに海の安全のことなど生きていく上で必要なことを伝えて次世代への教育も行っていました。
こんな若者たちが育っているマウイを誇りに思います。全てを失った本人が他の被災者のために動いている姿もあって、マウイの底力を感じずにはいられません。マウイは大丈夫! と将来に光が見える思いです。
ーリチャード・ビッセン郡長がラハイナの復興に向けてアドバイザーチームを結成したことに対してはどう思われますか?
個人的に素晴らしい人選だと思いますし、ラハイナの住民やマウイの人たちに聞いても前向きな反応をされます。選ばれた5人は、地元で多くの人から尊敬されているラハイナ住民で、それぞれが違う分野でリーダーとして常に精力的にコミュニティーのために動いている人たちなんです。3人はこの火災で家を失った人です。今、週1回市長とミーティングをしながら復興についてのアドバイス、住民からの意見を直接伝える役割を果たしてくれています。これによって、住民の証言の場が設けられ、住民の人たちもそれまでマウイの根底にあった問題にも向き合って、変えていこうという姿勢になっているんです。
当初は、マウイは大金持ちの裕福な人しか住めない島になってしまうのではないかと本当に心配だったのですが、住民の意見を聞きながらの復興が進められるのではないかと感じます。暮らしていた人たちが戻ってこられるような町になるように希望を持っています。
ーラハイナの復興に住宅の問題はとても重要だと思いますが、どのような動きがありますか?
10月末時点で2700世帯が住宅を必要とされています。ホテルに滞在されている方も2週間先のことがわからない状況です。ホテルはキッチンがありませんし、配給を受ける方は毎食決まった時間に食事を取りに行くことも負担になったり、配給する側は喜んでしていることなのですが、それに対して「何度も頭を下げて無料でご飯をいただくことが辛くなった」と気兼ねする方もいます。
住宅の家賃は非常事態宣言によって賃貸料金の値上げは制限されていますが、現時点では新規の賃貸契約は新たな料金設定ができるようになっています。ですので、貸主が現在のテナントさんを立ち退かせて、新たな賃貸料で貸し出す動きもあります。西マウイは2ベッドルームで毎月5000ドルをゆうに超えるほどになっています。
ーマウイ島への観光が呼び掛けられていますが、現状はいかがでしょうか?
マウイに来ていただき、それがラハイナのためになる形での観光をぜひ楽しんでいただきたいと思います。
ラハイナ以外は今までと全く変わっていません。私がおすすめしたいのは2点あり、その一つはローカルビジネスを利用していただきたいということです。ラハイナの住民でなくても、そこで働いていた方は仕事を失ったり、観光客がいなくてお客さんが来なかったりして苦労されています。火災後にラハイナのサポートをしていた地元のお店がたくさんあるのですが、彼ら自身も大変な状況なんです。
もう一つは、炊き出しや物資の供給を行う場所に行ってお手伝いをすることです。例えば2時間手伝って、その後は観光を楽しむという形もあると思います。一緒に働くことでアロハを感じる素晴らしい体験にもなり、ご自身も気持ちいいと思うのです。私たちも時間が空いたときにサッと飛び込みでお手伝いをしたりして、できる範囲で継続的にできることをしています。悲しいことにラハイナの被災地に行って記念撮影をするという心無い行為もありますが、前向きな支援として観光をしていただけたらと思います。
ーこれからどのような支援を続けられたいと思いますか?
私たちの都合で物事は動いていかないので、状況に合わせて被災者の方たちが求めるものに沿って柔軟に彼らのペースで活動を続けたいと思います。
最初、自分たちのお金では限りがあるので1万ドル集まったらよいなと開始したのがあっという間に二日ほどで2万ドル集まり、今や18万ドルを超えています。現時点で6万ドルほど残してあるのですが、それはきっとこの先に必要になる時が来ると思うからです。皆さんが安心して生活できるようになったときにまだ残っていたら、それは日系人やラハイナ住民の心の拠り所であったラハイナの三つのお寺、真言宗「ラハイナ法光寺」、浄土宗「ラハイナ浄土院」、浄土真宗「ラハイナ本願寺」にお渡しできればと考えています。
一瞬にしてそれまでの日常を失った方たちの精神状態は想像することもできません。一人も取り残されることなく、復興が進んでいくことを心から願い、そのために私たちも力を尽くしたいと思います。
インタビュー:ライトハウスハワイ 大澤陽子
このページは「ライトハウス・ハワイ」 2023年12月号掲載の記事を基に作成しています。