私たちはハワイで、日本人移民が築いた歴史の延長線上に暮らしています。今、彼らの歴史を身近なコミュニティーの問題の解決につなげるプロジェクトが学生向けに行われています。住みやすいハワイを築くために、私たちもこの夏、先駆者である第100歩兵大隊を通して日系人の価値観を見つめてみませんか?
ーLegacy2Actionー
100歩兵大隊に所属していたキャシー・ハヤシさん。第100歩兵大隊退役軍人(以下クラブ100)の教育委員長兼会計係を務めるハヤシさんは、2022年に「先人たちの歴史を、現代の社会問題の解決に生かすことができる」と発案。クラブのサポートにより、『レガシー・ツー・アクション(Legacy2Action)』というプログラムを立ち上げました。ハヤシさんにお話を伺いました。
クラブ100とは?
クラブ100は1945年12月に設立された退役軍人団体で、当初のメンバーは第二次世界大戦時の第100歩兵大隊の退役軍人たちでした。
第100歩兵大隊(分離:独立部隊の意)は1942年6月にハワイで生まれ育った日系アメリカ人により結成された部隊です。彼らは第二次世界大戦でヨーロッパの地で戦った最初の日系人部隊となりました。ドイツ軍と戦い、戦地で町の住民たちを、脅迫や虐待、殺害の危機から解放しました。これらの町の人たちは今も第100歩兵大隊や第442連隊戦闘団の日系人たちを称賛しています。
クラブ100の目的は、第100歩兵大隊のアイデンティティーと遺産を永続させること。そして、ハワイの人たちへの地域奉仕をして、ハワイを愛する心を保ち、社会福祉を促進すること、加えて、第二次世界大戦で命を落とした兵士、およびその家族を含む第100歩兵大隊の退役軍人たちの支援ネットワークを提供することです。
現在のクラブのメンバーは、第100歩兵大隊に所属していた人とその妻・未亡人、または直系の子孫・血縁関係者とその配偶者、そして名誉会員で構成されています。
戦時中にクラブ設立のために寄付を開始
クラブができたきっかけは、第100歩兵大隊がウィスコンシン州にあるキャンプ・マッコイで訓練中に「退役した兵士たちが友情を保ち、戦争で命を落とした仲間の家族を支援するなど、助け合えるクラブを戦後に作ろう」と考えたことにありました。その後、毎月の給料から2ドルずつの寄付を始め、組織を作り、クラブハウスを建てたのです。クラブハウスは1952年に建設され、それ以来、絶え間なく利用されてきました。
『レガシー・ツー・アクション』を立ち上げた経緯
第100歩兵大隊は、ハワイ出身の小柄な日系人部隊でしたが、アメリカへの忠誠心を認めてもらうために訓練や戦場で驚異の粘り強さを見せました。結果的にそれが人種を超えた理解へとつながりました。私たちは、このような歴史を知ること、そして勇気や強さなどから学び、現代社会に生かしていくことが大切だと考えたのです。
2022年、新型コロナウイルスの影響で、まだクラブハウスが閉鎖されていたとき、大隊への関心は次第に薄れていきました。この年は大隊編成80周年でした。そんな中で、私たちは『レガシー・ツー・アクション』 プログラムを通じて若者が第100歩兵大隊に興味を持つきっかけを作りたいと考えました。そして、将来を担う学生が、兵士の価値観とリーダーシップスキルを学んで地域社会に還元するという、このプログラムを立ち上げたのです。
歴史を用いて地域の問題解決に
今、ハワイはさまざまな問題に直面しています。このプログラムでは、参加者が第100歩兵大隊の歴史を学ぶことで得たインスピレーションを生かすことを鍵として、地域の問題を特定し、解決策を作成します。どのような価値観からインスピレーションを受けたのか、そして第100歩兵大隊がどのようにその価値観を示したことを感じたかを尋ねられます。小学生から博士課程の学生までが集まり、彼らが「どのようにしてハワイがより良い場所になるために貢献できるか」について熱心に議論しています。
今年5月には、日本から木原稔防衛相、兒玉良則在ホノルル日本国総領事らがクラブハウスを訪れました。多忙なスケジュールの中で訪問を希望された木原防衛相は、第100歩兵大隊の歴史や、日系2世の人たちが日本生まれの親(1世)から受け継いだ日本の価値観と、それを生かして第442連隊戦闘団と共に米軍史上最も栄誉ある部隊となったことに関心を持たれていました。 また、防衛相は『レガシー・ツー・アクション』を通じて、第100歩兵大隊の価値観をどのように学生たちと共有しているかについて、私たちの話に熱心に耳を傾けてくださいました。
こうした理解を得ながら、私たちはこの取り組みにより、歴史を有意義に保ち続けたいと願っています。
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1952年に設立され、第100歩兵大隊がたどった歩みを次世代へ残していくために、戦時中の写真、軍服や軍需品、物品など、数多くの資料が、展示、保管されています。この建物は、日系人兵士が戦争から戻ってくる場所を作るため、戦時中から毎月2ドルずつ集金して建てられました。戦後から現在に至るまで、第100歩兵大隊に所属していた人やその家族、子どもたちが定期的に集い、食事をしたり、行事を催したりする場となっています。
住所:520 Kamoku St.,
Honolulu
TEL:808-946-0272
開場時間:月〜金曜日
9:00am〜12:00pm
(要予約)
休館日:土・日曜日
第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の日系アメリカ人兵士たちは、1900年代初頭にハワイで生まれました。その両親は日本からの移民です。日本からの移民は1世と呼ばれ、その子どもたちは2世と呼ばれます。2世たちは学校では英語、家では日本語で両親と話しました。また、彼らにはネイティブハワイアンやフィリピン人、中国人、ポルトガル人など多くの民族の友人もいました。彼らは「ピジン英語」を話し、他民族社会のハワイで、平和でアロハな生活を送っていました。
1941年12月7日の真珠湾攻撃の前、ハワイ州兵は多民族で訓練を受けていましたが、真珠湾攻撃によりハワイの日系人に疑いの目が向けられるようになりました。そして日系人兵士による「ハワイ臨時歩兵大隊」という新しい陸軍部隊が編成されました。
真珠湾攻撃から6カ月後の1942年6月5日、米陸軍輸送船マウイ号が部隊の1432名の兵士たちとともに静かにホノルル港を出港しました。その目的地は彼らに知らされていませんでした。
1942年6月12日、カリフォルニア州オークランドに到着する直前、部隊は第100歩兵大隊(分離)に再任命されたことを知りました。それは、独立した部隊であり、他の連隊や軍事部隊の一部ではないことを意味します。彼らは、ハワイの人々を心に留めて、変わらぬアメリカへの愛国精神と忠誠心を見せるため、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を部隊のモットーに掲げました。
第100歩兵大隊(分離)はさらなる訓練のため、1943年1月6日にミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移されました。キャンプ・マッコイでの彼らの優秀な訓練記録とハワイでの「大学勝利奉仕団」の活動により、陸軍省は1943年2月1日に「第442連隊戦闘団」の編成を承認しました。1943年3月、ハワイから約2700人、アメリカ本土からは約1500人の日系人志願兵が第442連隊戦闘団に入隊しました。ハワイからの志願兵が訓練を受けるためにキャンプ・シェルビーへ出発する前の1943年3月28日、イオラニ宮殿で盛大な壮行式が開かれました。
1943年8月21日、第100歩兵大隊(分離)は、北アフリカのフランス領アルジェリアのオランに配置されることになりました。ニューヨークのスタテン島からジェームズ・パーカー号に乗り込み、1943年9月2日にオランに上陸しました。
その後イタリアの南端に移動し、モンテ・カシノの戦い、アンツィオの戦い、そしてローマ/アルノの戦闘などで勇敢に戦いました。彼らは、第二次世界大戦のヨーロッパで戦闘に参加した最初の日系アメリカ人2世部隊となりました。
1943年9月、サレルノに上陸したとき、部隊は約1300名余りで構成されていました。1944年2月までに兵士約800人が死傷。その死傷者の多さから、部隊は負傷または戦死した兵士へ贈られる勲章の名前である「パープル・ハート」大隊と呼ばれました。
陸軍省は「日系人兵士を信頼できる」と確信し、第100歩兵大隊に、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーで訓練を受けていた第442連隊戦闘団の兵士が加わることになりました。第442連隊戦闘団がイタリアに上陸後、1944年6月11日に第100歩兵大隊はその第1大隊となり任務を遂行しました。公式に 「第100大隊・第442連隊」 と再任命されたのは1944年8月10日でした。
第100歩兵大隊は、1943年9月から1945年5月までヨーロッパで戦いました。兵役した人数は3147名と記録されています。
● 兵役に就いた人数:3147名
● 命を捧げた人数:340名
(戦死、負傷その他の原因で亡くなった人を含みます)
● 大統領部隊表彰(当時:名誉部隊表彰):3
● 名誉熱章:8
● 殊勲十字章:17
(当時24名、2000年に7名が名誉勲章に昇格)
● シルバー・スター章:147
● レジオン・オブ・メリット章:9
● 軍人褒章:8
● ブロンズ・スター章(勇敢):238
● パープル・ハート章:1703
● 陸軍表彰章:30
● ブロンズ・スター章(功績勲章):2173
第100歩兵大隊の兵士たちの多くは、限られた教育と、貧しい家庭出身の若者たちでした。他のアメリカ人や日本人からの憎しみと差別に直面しても、がんばりの精神で、否定的なすべてに立ち向かい、ポジティブな面を見ることに集中しました。白人などのアメリカ人やナチス兵士よりも小柄で、「自殺任務」とされるほど不利な状況にあっても、彼らは全力で任務に従い、諦めずに戦ったのです。両親や家族、友人たちからの励ましの「がんばって」という声を胸に抱き、忠誠心を証明し、戦争を終結させて皆が平和な生活に戻るために戦いました。
第100歩兵大隊の兵士たちは、常に自分たちの両親の教えを反映し、家族の名誉を守り、家族に恥をかかせないようにすることを心掛けていました。退役軍人のクニオ・フジモト氏によると、彼は戦いに挑むことをとても恐れ、自分の命を案じていました。しかし、母親の「恥を作るな」という声が耳に残り、最善を尽くして家族や国を誇らしく思わせるために、前へ進んだといいます。
真珠湾攻撃の後、多くの日系人は敵性外国人と見なされ、一部がサンドアイランドやホノウリウリなどの収容所に収容されました。
そんな中、第100歩兵大隊の兵士たちは、彼らが信頼し尊敬するハワイ島出身のファーラント・ターナー司令官のもと、忠誠心を証明する手段もなかった日系人たちを代表して立ち上がったのです。だからこそ、その後、がまんの精神で、死の恐怖、仲間が殺されたり負傷したりする悲しみ、島での生活では経験したことのない厳しい寒さ、負傷や20カ月にわたる常に攻撃される苦しみなどを乗り越え、偉大な成果を達成しました。
彼らは1942年6月から1943年8月までの間、文句を言わずに忍耐強く訓練にいそしみました。かつてハワイ準州軍として訓練を受けていた彼らは、基本訓練を再度受け入れ、異なる武器の使用や異なる任務をこなす機会と捉えました。このポジティブな考え方によってさまざまな武器を扱うことができるようになり、任務を自信を持ってこなす力となりました。後に兵士たちが戦死したり負傷したりした場合、そのポジションを引き継ぐことができたのです。
第100歩兵大隊は日系人が戦闘において信頼できるかどうかを確認するための陸軍省のテストケースでした。試されていることにも憤慨することなく、彼らの忠誠心を疑う国に対して、自らの愛国心を証明する機会と捉えたのです。これにより、他の日系人兵士たちが戦闘への参加を許可される道を開きました。1944年6月、第442連隊戦闘団が第100歩兵大隊と共に戦うことができたのです。
一方、1943年の感謝祭の日、イタリアのコッリー・ヒル920の戦いでは、人手不足と敵による攻撃のため、食料と水が不足していました。一人1杯の水しか飲めず、のどが渇き、飢えと寒さに苦しみました。第1曹長は「私の水筒は満杯だったので、兵士たちに水を提供しました。数人の兵士は感謝して私の水を受け取りましたが、彼らは一口だけ飲み、残りを返しました。他の人たちは丁重に断り、『あなたが必要になるからとっておいてください』というのです」と回想しました。第1曹長は「私はこうした兵士たちと一緒に戦っていることに感謝しました。4日4晩の地獄の後でも、彼らは静かで、自分以外の人を考えることができ、最も必要なときに団結の精神を保ち続けました」。
1943年9月22日、第100歩兵大隊は約1300人の兵士とともにイタリアのサレルノの海岸に上陸しました。5カ月の戦いの後、戦える兵士は521人まで減少しました。彼らは、亡くなった人々の命を無駄にすることのないように、戦いを勝利に導かなければならないと「責任」を感じました。
カツミ・コメタニ大尉は、戦いを生き抜いた後にこのように語っています。「ここにいる幸運な皆さんには、今イタリアとフランスで白い十字架の下で安らかに眠っている人々へに対しての挑戦と責務があります。『より良いハワイを築く』ということ。それが私たちがこの戦争で戦った目的の一つです。利己的に言えば、人種間の対立が領土全体に広がった場合、最も大きな損失を被るのは、まだすべての権利と特権を持つ国民として受け入れられていない私たちでしょう。あらゆる人種の人々との友好関係を維持するために全力を尽くして、アロハの精神を持ち続けていくことを願っています」。
第二次世界大戦中の1941年から1945年までの任務を果たす中で、上官から同意できない命令を受けることがありました。それでも彼らは義理を持って国のために行動しました。
例えば、イタリアのカシノの戦いでは、ラピド川を見下ろす山の頂上にあるドイツ軍占領下の修道院を奪取するよう命じられました。川を渡り山の頂上を目指すことはリスクが高過ぎて「自殺行為」と感じました。誰もがその命令が愚かなものであることを知っていても、第100歩兵大隊が信頼できる戦闘部隊であることを認められたいという彼らの気持ちは揺るぎませんでした。そして、日系人としてのアメリカ合衆国に対する義理と義務、そして忠誠心を持ち、挑戦したのです。
川渡りは悪夢でした。ドイツ軍は新たに探知することが難しい地雷を撒き、また、部隊を泥に沈ませるために川の周りの平地を浸水させました。190人のうち、川を渡りきることができたのは46人だけでした。さらに、そのうちの14人しかドイツの要塞を囲む壁に到達することができませんでした。
プログラムの流れ
初めに、クラブ関連者から第100歩兵大隊が持つ価値観について学びます。
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その価値観や教訓から、コミュニティーで目にした問題に対処するための創造的な解決策を提案します。
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プレゼンテーションの後、第100歩兵大隊のメンバーや家族、友人、そして地域社会の支援者と会います。自分たちのプロジェクトについて、コミュニティーのリーダーや各分野の専門家からフィードバックを受けます。
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参加者たちは、第100歩兵大隊の「レガシー」を、「アクション」を通じてハワイが直面する多くの問題を解決し続けることを約束します。
■参加人数
最初の年である2022年は2つの学校から4人の生徒が参加。2023年には31人、今年は100人以上の生徒が参加しました。最初は中学校や高校でしたが、小学生やハワイ大学の学生も対象に含めるなど対象を広げています。
■協力
セントラルパシフィック銀行、ハワイ大学老化学センター、イオラニ学校
※CPB財団が寛大な助成金を提供
■同プログラムの詳細や申し込みは、
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