連協や明治会、県人会など日系コミュニティー活動を精力的に行ってきたディーン朝比奈さん。小児科医を目指した大学時代から現在までの数々の転機を前向きに受け止めてきた人生を語ってもらった。
祖父母が山梨県出身で、私は日系3世です。小児科医を目指していたのですが、大学卒業後、医学部に入る前に子どもの心理学をリサーチするために日本に行きました。
東京の町田市という、のどかな場所にある児童養護施設で初めての日本生活が始まりました。それほど日本語が話せなくても、子どもたちとはスキンシップですぐに打ち解けました。でも大人たちとのコミュニケーションは苦労しました。私の顔は日本人なので、容赦なく日本語で話しかけられましたし、日本語が読めなかったので、駅で切符を買う際に尋ねても「書いてあるじゃないか!」と言われたり。そこで覚えた手段は、英語で話しかけること。皆さん途端に優しくなります(笑)。
アメリカ人でも日本人でも同じ人間だと思っていましたが、子どもに対しての考え方の違いから女性職員を怒らせたことも。でも2年経つ頃には子どもだけでなく大人も身の上相談をするために私の部屋に来るようになりました。文化の違いを目の当たりにした日本では、すばらしい経験を重ねることができました。
医学の道へ進む予定が教育の現場に方向転換
1978年にハワイに戻り、医学部への進学準備をしていた頃、たまたま友人から「ミッドパシフィック・インスティチュートで学部長を募集しているから受けてみたら?」と勧められました。医学の勉強と両立するつもりで受けてみたら「明日から来てほしい」と言われ、そのまま就職。翌日から学生たちとの寮生活がスタート。そこでも多くの学生が、勉強や人生の悩みを打ち明けに私の部屋に集まるようになりました。
あまりの忙しさに、医学の道は断念しましたが、後悔はありません。誰かを助ける喜びに変わりはないからです。
日系人として次世代に残し伝える使命を果たしたい
父が建設会社を経営していたので、長男の私は1987年に父の会社を手伝うことを決意。日中は現場、夜は建設事業ビジネスを学ぶためにエンジニアスクールに通いました。1997年に社長になり、同時にビルディング・インダストリー・アソシエーション(BIA)という組織の会長に就任。BIAではボランティアで各コミュニティーで建築関係の技術をレクチャーしました。例えば、刑務所で水道工事や修理などの技術を教えれば、出所後に技術者として働けるようになるのです。この活動は今も続けています。
ハワイ山梨県郷友会の会長を20年近く務め、2016年にはハワイ日系人連合協会会長を1年間経験しました。日系人であり、技術者として、フォート・デ・ルッシー公園に、第100歩兵大隊・第442連隊戦闘団・アメリカ陸軍情報部・1399工兵隊の記念碑をデザインし、建設。第100歩兵大隊エデュケーションセンターを建てたり、日系2世が移民のために作ったセントラル・パシフィック・バンク本店前にはレガシーウォールを建設しました。
ハワイをより良くしていくためには次世代へ伝えていくことが大切。自分が人生で学び教わったことを、しっかりと残していきたいと思います。
Dean I. Asahina
◎1953年ホノルル生まれ。地元の小中高校卒業後、1971年にハワイ大学へ入学。心理学、動物学専攻、修了。1976年に卒業後、日本の児童養護施設へ勤務。1978年ミッドパシフィック・インスティチュート学部長に就任。1987年Universal Construction, Inc.副社長、1997年に現職へ。
(2018年4月1日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年4月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。