ハンディキャップを持つ子どもたちをサポートする教師、そして日本舞踊の師匠としてだけでなく、ハワイ日系人連合協会のプレジデントとしても活躍するシェリー・タムラさんに人生の転機について伺った。
私は生みの親のことを知りません。生後間もなく、オアフ島の孤児院に引き取られ、1歳半のときにカウアイ島に住む日系のタムラ夫婦の養女として迎え入れられました。
プリスクールでは「アイム・シェリー・タムラ。アイム・アダプテッド(私は養子です)」とよく意味もわからず、自己紹介していたのを覚えています。養父母は愛情たっぷりに私を育ててくれたので、悲しみに暮れるようなことはありませんでした。
3歳のときにオアフ島に引っ越し、小学6年のときには、3つの目標をたてました。1つ目は、学校の先生になること。こちらはハワイ大学の教育学部を卒業後、先生になり達成。現在は、モミラニ小学校のスペシャルエデュケーションで障害を持つ子どもたちのサポートやELLのコーディネーターとして勤務しています。教師になって早33年が過ぎました。
2つ目の目標は、交換留学生として日本に行くこと。こちらも高校時代に静岡・東京に留学することで早々に達成。
3つ目の日本舞踊の教室を主宰するという目標も達成し、パールシティーの『花柳みつすみダンススタジオ』で日本舞踊を教えて25年になります。
両親の介護や子育てを苦労と捉えず「学び」と考える
目標に決めたことを着実に達成してきた私にも、簡単には乗り越えられない壁が幾度となく立ちはだかりました。
その壁とは、高齢になった養父母の介護でした。父は2年前に100歳で大往生しましたが、13年前に亡くなった母は、私が高校を卒業した時点で糖尿病にかかり、後に両足を切断するという苦難に直面しました。老人ホームに母を預け、教師の仕事、踊りの教室の運営とタイムマネージメントが何よりも大変でした。
それでもなんとかやっていたある日、父が「私はあなたに素晴らしい人生を与えてあげた。だから、今度はあなたが誰かにそれを与える番だよ」と言って、離婚した私に養子を迎えるようにすすめたのです。私は養子として、とても幸せだったので父の言葉に納得。中国に渡り養女を迎えました。娘はちょうど1歳半。私が養子にもらわれたのと同じ年齢でした。
当時私は40歳半ばで、親の介護に子育てが加わり尋常ではない忙しい日々。「親の介護は苦労ではなく学びであり、自分がより良い人間になるために必要な経験なのだ」と前向きに捉えるようにしました。そうでなければあまりの大変さに、鬱になってしまったでしょう。この介護と子育ての経験が私の人生をより豊かななものに変えてくれました。大切に育てた娘は、今年大学に入学予定。私の元から飛び立とうとしています。
2018年は、ハワイ日系人連合協会のプレジデントとして非常に忙しくなりそうです。ハワイへの日本人集団移民1号となる「元年者」150周年記念の行事の開催とともに、日系コンベンションがハワイで開催され、そのコーディネートも担当します。日系人にとって大切なセレモニーが目白押しの1年。ハワイで幸せに暮らせるのは、日系人の努力のおかげ。そのことを広く伝えたいですね。
最後に、私の4つ目の目標?それは、日本の皇室のメンバーとお会いすること。さて、達成できるでしょうか?
Sheree Tamura
カウアイ島出身。ハワイ大学教育学部卒業後、小学校の教師となる。また、2歳の時より習い始めた花柳流の日本舞踊を極め、1992年に「花柳みつすみダンススタジオ」を主宰。時を同じくして、合気道三段、長刀二段を取得する。現職は、モミラニ小学校の教師であるとともに、2017〜2018年度のハワイ日系人連合協会のプレジデント
(2018年1月1日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年1月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。