低価格で高品質、豊富な品ぞろえを誇り、日本国内に3300店舗を有するダイソーがハワイ初上陸。待望の出店と1ドル50セントの価格を実現させたハウスマートのウェイン・カミタキさんに転機を伺った。
私たち家族の商売は、広島から来た祖母がマウイ島カフルイに小さな店を開いたことが始まりでした。子どもたちにその店を残すためだったそうです。「子どものために」という日本語は、自分を犠牲にしても次の世代を想う日本の文化だと思います。それを見て育った父は、母の店を手伝った後1951年にベン・フランクリンを開店しました。
父は忙しくていつも家にいなかったので、私は商売をしたいとは思えませんでした。大学の専攻はビジネスと無関係の心理学と決め、1970年に高校を卒業。ところが父が脳梗塞に倒れ、これが私と家族、親戚全員の転機となりました。私は大学を1年余り休学。家族と親戚でベン・フランクリンを手伝いました。
21歳の私は何をすれば良いのか検討もつかず、がむしゃらに働きました。皆がもがきながらも諦めないことで、なんとか商売を立て直すことができました。
継続することで訪れた小さなチャンスが扉を開く
2回目の転機は40代前半のとき。商売がほぼ破綻状態になったのです。経験もあったはずなのになぜこんな事態になったのかと落ち込みました。とうとう両親に「店を売ろうと思う」と伝えました。今なら少しは両親にお金を残せると思ったからです。すると父は「店を売るためにお前に任せたのではない。商売の終わりは倒産したときだ」と。
毎晩どうすべきかをひたすら考えながら、1日1日細々と商売を続けていると、小さなチャンスが少しずつやってきて、再び盛り返すことができたのです。チャンスというのは大きくなくても、新たな扉を開いてくれるということに気付かされました。
そんな好機をもたらしてくれたのは人です。銀行の紹介や商売のヒントなど、人に助けられたので、私たちも苦しんでいる人にはできる限り手を差し伸べてきました。あるときはそれがチャンスになったこともありました。エース・ハードウェアの商売は、叔父の商売を手伝ったことをきっかけに始め、成長させることができたものです。
人との縁で実現した 夢にも思わぬダイソー開店
ダイソーを知ったのは25年前。100円という価格とその品質がすばらしく、日本に行くたびにダイソーで買い物をしました。自分がハワイでダイソーをオープンさせるなんて夢にも思いもせずに! その後ご縁あって関係者と知り合い、一旦途絶えたものの再び繋がり、偶然が重なって、ハワイでのオープンに至りました。これも人との繋がりが導いてくれたものです。
「お客様にしっかりサービスすればうまくいく」と父がいつも言っていた通り、お客様が喜んでくださることが私たちの幸せであり、商売継続のモチベーションになっています。お客様、商売仲間、社員なくては、今の私たちはありません。「おかげさまで」の言葉に尽きます。
以前、父に「脳梗塞を患ったことは悲しかったけれど、それによって私たち家族親戚が団結できた」と言ったことがあるのですが、ファミリーが一丸となったからここまで来られたと思っています。
Weyne Kamitaki
◎1952年マウイ島ワイルク生まれ。カフルイを経てオアフ島に引っ越し、1970年イオラニスクール卒業。1975年ハワイ大学心理学卒業。ベン・フランクリン・クラフト、エース・ハードウェアを家族経営。2018年12月にパールシティー・ショッピングセンター内にダイソーハワイ1号店をオープン。2号店をホノルル周辺に出店予定。
(2019年2月1日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年2月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。