「ウクレレ・ドクターT」として、子どもから大人まで約3000人の患者に親しまれてきたトニー・トリコフスキー医師。ニーズに応え『ドクターズ・オブ・ワイキキ』を開院させた医師としての人生の転機を伺った。
私の両親は、旧ユーゴスラビア(現マケドニア共和国)出身です。政情が不安定だった1960年代にそれぞれがアメリカに渡り、シカゴで出会いました。ですから私は生まれも育ちもアメリカです。
19歳のとき、両親とともに独立を果たしたマケドニア共和国へ引っ越しました。そこでメディカルスクールに奨学生として入学しました。両親の家系はビレッジドクターで、ハワイで言えば〝カフナ〟のような存在でした。古来から村の人たちの病を癒し、その術が代々伝えられてきた家系だったのです。その血筋のせいか、9歳のときに将来の夢を「ドクターになってみんなを健康にしたい」と、学校で書いていました。
マケドニア、アメリカ、ハワイで医療の道を歩む
メディカルスクールに入学したものの、マケドニア語がわからず、まずは語学を必死に勉強しました。両親の母国語だったので耳なじみはあったのですが、最初は読み書きもできませんでした。
生活環境はアメリカと全く違いました。テレビもラジオもチャンネルが2つしかなく、夜10時で終わり、マクドナルドもない。みんな良い人たちでしたが、やがてアメリカが恋しくなり、卒業後にオハイオ州の大学へ進学しました。
2002年、フロリダで念願の病院を開業。プライマリケアとして年間一定額で定数の患者さんを診ました。ところが社会情勢や地域環境が影響して想定外のことが続き、模索していたとき、たまたまバケーションで行ったところがカウアイ島でした。自然、音楽、人の素晴らさに感動し、移住を決意。カウアイで医師として勤務を始めました。
その頃の体重は130キロ。自分自身の健康も危うい状態でした。エクササイズを始め、トライアスロン、空手などに挑戦。仕事も充実していました。でも、カウアイ島も夜10時には街が眠ってしまう。これではマケドニア共和国と同じ(笑)。体も心も軽くなり、もっと自分の可能性を広げたい、もっと成功したいという思いが強くなり、チャンスを求めて2012年にオアフ島へ引っ越しました。
誰かを助ける喜びに勝るものはない
オアフ島では、世界中からの観光客や移住してきた人たちの医療の需要に対し、病院と医師があまりにも不足していると痛感。日中はクリニック、夜は病院で働きました。
そこで同じ気持ちを持っていたアラン・ウー医師と出会い、彼と一から作ったのが『ドクターズ・オブ・ワイキキ』です。朝8時から深夜0時まで開院時間にすることで、診察できる患者数は増え、待ち時間を減らせました。可能な限りの検査や処置をできるように最新の医療機器もそろえました。これらは自ら開業したから実現できたのです。今後はもどかしい思いをせず、患者さんへ最善のことをできる。これが大きな転機です。
誰かを助けることに勝る喜びはありません。薬を処方するだけでなく、生活習慣の指導も行います。カウアイ島に来たときより体重を50キロ落としたので説得力もあるでしょう? 当院に貼った体重130キロ当時の写真と、9歳の頃に書いた手紙を毎日見ながら、質の高い医療を提供できることに喜びと誇りを感じて毎日頑張っています。
Tony Trpkovski
◎1965年ミシガン州生まれ、シカゴ育ち。1984年マケドニア共和国移住。1992年聖ツィリル・メドデイ医学大学卒業。1994年ライト州立大学インターンシップ、一般内科チーフレジデント。1997年フロリダで一般内科医として勤務、開業。2005年ハワイパシフィックヘルス・カウアイ・メディカル・クリニックへ。ベストドクター受賞。2018年現職。一般内科医国家資格保持。
(2019年3月1日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年3月1日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。