両親は20代で日本からハワイに移住し、僕はホノルルで生まれ育ちました。大学はワシントン州立大学へ。卒業後はシアトルでソフトウェア販売の会社でセールスの仕事をしていました。
毎日が楽しくてしばらくハワイに戻るつもりはありませんでしたが、就職して3年後、父に「一緒にビーフジャーキーをやらないか」と言われたのが、今の仕事を始めるきっかけです。
僕が今作っているジャーキーは、元々は父の親友であるボビーさんが趣味として自宅で作っていたものなんです。僕は小さいときからそのジャーキーを食べていました。薄くてパリパリで本当においしいので、それが評判になって、ヤングストリートに商業キッチンを設けて販売するようになりました。
ジャーキーを作るのは立ち仕事で重いものを持つなどハードな作業が多く、ボビーさんは約10年頑張りましたが、高齢で体力も落ちて引退を決意しました。それで父が「もったいない!」と、僕に声を掛けたんです。
僕は、ハワイからジャーキーを送ってもらっていたし、恋しかったし、「これを無くしてはいけない」と思い、2019年にハワイに戻って来ました。
『パラダイスジャーキー』のオーナーになって、早速、ボビーさんの元で修業をスタート。目指したのは、1年以内にワイキキに店を開けることでした。
ところが2020年にパンデミックに。予定は狂ってしまいましたが、その分、キッチンでジャーキー作りに専念できました。製造から梱包まで全て手作業なのでボビーさんは1日に40袋しか作れなかったのですが、試行錯誤して品質を保ちながら200袋まで作れるようになりました。この他、もっとパリパリにできないかと思案したり、その食感を保つ工夫を重ねたり、コロナ禍を有効に活用できました。ボビーさんには、毎週味への意見をもらっていました。
失敗もたくさんありました。肉が品薄になり、価格も高騰した中、ようやく良質な肉を手に入れ、全工程を終えて仕上げたものが、調味料の沈殿の関係でしょっぱくなってしまったときは、全部を廃棄せざるを得ませんでした。その翌週には、仕込みから全てを終えて肉を乾燥したところ、コンセントが壊れて24時間後も生のまま。このときも泣く泣く廃棄しました。お金も労力も全て無駄にしたことに落ち込んだものです。
そんなときには、あの厳しいボビーさんが言ってくれていた「俺よりうまいジャーキーだ」という一言を励みに立ち上がりました。
今年3月にはついにワイキキに販売店をオープン。春休みの時期でワイキキには人が多く、良いスタートを切ることができました。でもその後は街が静かになり、旅行客にもサイクルがあるということを知りました。そもそも営業マンだった僕にとって、何もかもが初めてのこと。肉や調味料の買い出し、工場のマネジメント、店では商品の管理やスタッフ雇用とそのトレーニングなど、日々走り回りながら学んでいます。そんな中でお客さんからの「おいしい!」「こんなジャーキー初めて」と言われることがモチベーションになっています。
オンラインで売ってほしいというリクエストに応えるため、今はシステムを整えています。地元はもちろん、ハワイは世界中から旅行客が来るので、パラダイスジャーキーのおいしさを世界の皆さんに知ってほしいと思います。
いけだ・ひろかず◎1993年ホノルル生まれ。ワシントン州立大学に入学し、ビジネスを専攻する。2016年に卒業。シアトルで税関係のソフトウェア開発会社に就職し、営業を担当。2019年にハワイへ戻る。『パラダイスジャーキー』オーナーに。ヤングストリートにある工場で毎日完全手作りのジャーキー製造を指揮する。2022年3月、ワイキキに販売店をオープンさせた。
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2022年8月」号掲載の情報を基に作成しています。