多くの出来事があった2023年。1年を振り返り、本誌が今、話を伺って読者の皆さんにお届けしたいと思う4人にインタビューをしました。第1部では8月8日に起こったマウイ島の山火事を受けてお二人にご登場いただきます。
1902年に建立されたラハイナ法光寺は、ハワイ州最古の真言宗の寺院です。サトウキビ農園で働くためにハワイへ渡った湯尻法眼師が小さな民家を借りて始まったお寺で、日本人移民にとって心の支えの場でした。2003年9月からお勤めされてきたご住職の目黒孝幸さんにお話を伺いました。
ーラハイナの火災から1カ月にあたる9月8日に、真言宗「ラハイナ法光寺」、浄土宗「ラハイナ浄土院」、浄土真宗「ラハイナ本願寺」のご住職によって犠牲者の方々へのご供養をされました。そのときの経緯とお気持ちをお聞かせください。
仏教的には、七日、四十九日に意味があるもので、本来は1カ月という期間に意味づけはしにくいのですが、メディアや周りの方々に押されたのがきっかけのように思います。そのときの道路事情なども考えると人が集まることにいろいろなリスクが伴ったので、3人だけでラハイナを見渡す高台でご供養をしました。
燃えてしまったラハイナをじっくり見たのは、あの日以来初めてでした。私がラハイナのお寺に来て約20年ですが、当初からこれまでのことが思い出されましたね。小さな町なので、誰がどの家に住んでいるかがわかるんです。もう亡くなって久しい方々も多いのですが、マンゴーの大きな木がある家では毎年5月になると「これ持って行き」と言ってマンゴーをいただいたなぁなど、そんな過ぎ去った時間を思いました。
ー9月25日、どのような思いで、追悼と復興を祈念して四十九日のご法要を営まれましたか?
四十九日については、当初から真言宗の中で行いたいと話していたことで、ワイルクにある真言宗の光明寺で執り行うことができました。
このときに檀信徒さん、いわゆるメンバーの皆さんが、火災以来初めて集まりました。毎日のように顔を合わせていた方たちなのですが、そのときは娘さんや息子さん、兄弟姉妹の家に避難して島のあちこちに散っていたので、簡単に集まれる状況ではありませんでした。電話で連絡は取れていたのですが、やはり実際にみんなで再会できたことは嬉しかったですね。
ー10月22日にはラハイナのワヒクリ·ウェイサイドパークで、キャンプ用のイスを並べてお大師講(だいしこう)をされました。それまでは毎月の行事であったお大師講をこの日、どのようなお気持ちで行われましたか?
やはりラハイナのお寺ですから、ラハイナで行うことに意味があると思っています。あの火の中を逃げ回り、命からがら助かった人でなければわからないことがあります。たまたまあのときにUターンをしたことで生き延びたように、偶然が重なった結果、命があるわけで、その逆の方もいらっしゃいます。大切なご家族を失った方は自分が死んだ方がよかったと考えます。仏教の根底にあるのは「どう生きるか」だと思いますので、なぜ自分が生きているのかを受け入れ、生きている人同士で支え合わなくてはなりません。周りの皆さまからの物資やお言葉もありがたいのですが、被災した人間にしか分かり得ないことを抱える中で、そうでない方に対してどこか構えて話してしまうのです。どうしても会話や感情にズレが生じるので、私自身も落ち込みました。
四十九日はワイルクやクラのメンバーも集まりましたが、この日のお大師講は、壁を作らずに本音で話せる人だけで顔を合わせることで、少しでも重荷を下ろすためにも行おうと考えました。
ーご自身のご家族の生活も苦労されている中で、こうしたことを行われるのは大変なことではありませんでしたか?
お寺のことは仕事と言われれば仕事ですが、私としてはそれが自分の生き方であり、毎日お勤めをさせていただいているうちにこうした考えになっていくのは自然なことのように思います。メンバーの皆さんは家族のような感覚です。ですので、お寺という建物は無くなってしまったけれど、建物という物には関係なくみんなが一緒のことを思って助け合うのが、生活であり生き方だと思っています。
ーお大師講に集まられた方々のご様子はいかがでしたか? それをご覧になって思われたことをお聞かせください。
これまでのことを「あぁだったね」「こうだったね」と話したり、情報交換をしたりしました。そんなやり取りをすることで安心できるのです。それによって自己肯定感を感じられ、心を癒す時間にもなります。私も最初にワイルクに避難したとき、そこにあるのはこれまでと何も変わらない日常で、それを受け入れるのは難しいことでした。皆さんも同じだと思います。この日、私たちだけで集まって話をすることで、「落ち着く」と誰もが思えるような状況となりました。これがセカンドチャプターの最初の1ページになったように感じています。
ーセカンドチャプターでは、どのようなことを考えていらっしゃいますか?
何年、何十年かけてもラハイナにお寺を建てたいと思います。120年の歴史が火災によって無くなったなんて、それまでお寺を守ってくれた人たちに顔向けできません。まずはどんな形であれ、コンテナハウスであっても、あの場所に仏様を置いて、旗を掲げたいですね。メンバーは高齢の方も多く、火災保険がおりたら土地を売って、子どもたちが暮らす米本土などに行ってしまう方もいると思います。そんな方たちの気持ちを「帰ろうかな」と少しでも押し留めることができるのではないかと思うのです。実際には瓦礫の撤去や空気汚染など環境問題もあるので、長い道のりになります。それでも「人が集まれる場所」が必要なのです。
ラハイナには三つお寺がありました。宗派が違っても皆さんの顔がわかり、町の横のつながりがあります。三つのお寺が全て無くなってしまいましたが、これから先、一つくらいは屋根があって安心して集まれるところがあって、そこでみんなで話をできる場所を作りたい。誰かがお寺を建てなくてはならない。それが長い長いセカンドチャプターです。
ーご自身の生活についても状況をお話しいただけますか?
火から逃れた日は山の上にある友達の家に避難しました。そこから一晩中、燃える街を見ていました。明け方、その家につながる一本道の下の方にも火が回ってきたので、今度はワイルクのお寺に避難しました。そこで10日間ほど過ごしたように思います。西マウイに行くこともできず、電話も全くつながりませんでした。電話も電気も水道もない状況ですからね。
翌日からは、メンバーの安否を確認するために、ワイルクやカフルイにある全ての避難所を回って情報収集をしました。その後はラハイナの避難所と配給所でも「誰々さんを見なかった?」と聞いて回りました。
避難場所は、FEMA(連邦緊急事態管理庁)や赤十字が手配したシェルターとしてホテルへ移動し、1カ月くらい滞在しました。一部屋に四人家族で暮らしていたので、子ども二人がベッドに寝て、私と妻は小さなカウチで休んでいました。配給もあり、もちろんありがたいのですが、子どもたちの学校の時間となかなか合わないので難しい部分もありました。キッチンや電子レンジのない部屋での生活はやはり心身共に落ち着くことはありませんでした。その後、ようやくアパートを探して、2週間ほど前にそこへ移り住みました。
でき得る申請は全てしていますが、条件にあってもすぐに家賃が出るわけではないので自己資金で暮らしています。皆さんも住む場所に苦労しています。自分で探すわけですが、ラハイナ周辺にはいわゆる豪華な別荘が多く、使われていない家が山ほどある一方で、住むところがないのが実情です。
ー私たちにどのようなことができるでしょうか?
必要なものは人それぞれですし、そのもの自体が届くことがない限り、やはり悲しいことに資金が必要になります。暮らしていた人はもちろんですが、ラハイナのフロントストリートなどで働いていた方々は働く場所を失ってしまったので、サポートが必要です。
ただ私が感じるのは、金銭的な支援だけでなく、心を寄せていただくことなのではないかと思うのです。2020年にパンデミックでロックダウンになったときも、心配してテキストでひと言「大丈夫?」というメッセージをいただいたときに嬉しくて心がほぐれたことも思い出します。人が人を思うこと、誰かが誰かを思うことこそ大事なことなのだと思います。長い言葉ではなくていいんです。「どう?」「How are you?」のひと言が心の支えになります。
これから生活の立て直しには、果てしない時間がかかることは確実です。継続的に被災されたお知り合いの方を思い、ひと言メッセージを送られること、言葉をかけられることが支援につながるのではないでしょうか。
インタビュー:ライトハウスハワイ 大澤陽子
このページは「ライトハウス・ハワイ」 2023年12月号掲載の記事を基に作成しています。