モンサラット通りのプレートランチ店として人気を博している『パイオニア・サルーン』。並びには『アース・カフェ』、さらにカカアコ店もオープンさせた、料理人であり、経営者の坂本憲彦さんに人生の転機を伺った。
バブル絶頂期、遊び回っていた私は、20歳のとき、亡き父の親友から叱責を受け、彼の紹介で建材会社に入社しました。すぐに営業成績が上位になったのですが、上司の家に遊びに行き、決して裕福ではない生活を見て、「出世より、社長になるしかない」と生意気にも思ったんです。
人脈とお金を作るため、日中は会社勤務、夜は赤坂の高級ナイトクラブの専属ドライバーのアルバイトを始めました。乗車するお客さんは政治家や芸能人など。そこで出会った方のご縁で、22歳のとき、広告会社へ転職しました。撮影で海外へ行く中、英語が話せないことを不自由に思い、英語の勉強のため27歳のときにニューヨークへ行きました。
NYで知った自分の価値は時給6ドル
NYでは日本食レストランで働きました。まずは皿洗い。時給は6ドル。日本で週末に仲間とクルーザーで海に出て遊んだりしていた生活とは一転。自分一人の価値はこの値段なんだと思い知りました。
寿司職人の見習いになり、働いたのは『ボンドストリート』というハリウッドスターやセレブが集う華やかな店。ところが料理人は日本人ばかりで、日本人社会にどっぷり。英語を使うこともほとんどありませんでした。
30歳を目前に、何のために渡米したのかと考え直し、サーフィンで訪れていたフロリダへ行き、日本食レストランで働き始めました。日本人はゼロ。白人社会に身を置き、家族のような付き合いをしてもらいました。その町はスペースシャトルを打ち上げる宇宙センターの近くで、観光客で賑わい、多くの宇宙飛行士に寿司を握りました(笑)。
居心地は良かったのですが、このままこの田舎で一人で朽ちていく前に、もう1回チャレンジしたいと思い、サーフィンができて、未知の世界だったハワイへ行くことに…。
雇用者から経営者になり「一番大切なのは従業員」
アメリカ同時多発テロ事件翌年のハワイは、働きたくても門前払い。ついに弁当屋で働けることになり、店舗を増やしたり、運営にも関わるようになりました。ところが数年後、オーナーの意向で店を縮小し、自分の給料も下がることに。40歳を前に、自分の意思では何もできないやるせなさが残りました。
そんなとき、知人からモンサラット通りの一角で飲食店をしないかと誘われ、鬼門と呼ばれていた場所でしたが、覚悟を決めました。3つの飲食店で働きながら、手作りで1年かけて店を作りました。所持金800ドルという、窮地に立った状態でのスタートでした。
日本のお母さんの味を自分流に進化させたプレートランチを提供したい。そんな思いで細々と続けていくと、新聞社の取材をきっかけに、さまざまなメディアが来てくれ、徐々にお客様が増えました。
商売をする中で従業員が一番大事だと感じています。「アートの道を目指したい」「パン作りを極めたい」というスタッフたちを応援するため、思いきってギャラリーカフェ『アース・カフェ』を開店しました。地元アーティストの応援の場となり、地元へ少しでも恩返しできているのであれば、嬉しいことです。
さかもと・のりひこ
◎1967年山口県生まれ。1987年住友ゴム工業関連企業に就職。広告会社を経て、1996年に渡米ニューヨークへ。寿司レストラン『ボンド・ストリート』で働く。1999年にフロリダに移住し、日本食レストランで寿司を握る。2002年ハワイ移住。2009年『パイオニア・サルーン』開店。2016年『アース・カフェ』 、2018年『パイオニア・サルーン』カカアコ店オープン。
(2018年11月16日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年11月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。