ハワイ現地発!最新生活情報&おすすめ観光情報サイト

 

 

真珠湾攻撃の日とホノウリウリ収容所のこと

 

私は1940年にホノルルに生まれました。母方の祖父母は熊本県の出身で、父は熊本県出身の一世ですので、私は2.5世です。母方の祖父、本田栄蔵は頑固な九州男児で、大の日本びいきでしたから、自宅の寝室には天皇陛下のご真影が掲げてありました。

真珠湾攻撃は、私が生まれた翌年にあったので何も覚えていませんが、後に両親などから当時のことをいろいろと聞かされました。父は仕事に出掛けていて、家に居たのは母と伯母と私だけだったそうです。真珠湾攻撃の後、すぐに敵性外国人の取り締まりが始まり、日本国籍の住民が次々とサンドアイランドで取り調べを受け、収容所に送られました。

ご多分に漏れず家にも軍警察が検問に来たので、母たちは、ご真影がまだ掲げてあるのを思い出し、見つかったらどうしようと気が気でなかったそうです。でも、母が機転を利かせて「寝室には赤ちゃん(私のこと)が寝ているから」と若い兵士に言ったら「大丈夫」という言葉が返ってきたので胸をなでおろしたそうです。

当時、祖父母はワヒアワで豆腐屋を営んでおり、6人の伯父たちも全員親元に住んでいました。長男の義春はまだ大学生でしたが、既に招集兵としてスコフィールド兵舎で訓練を受けていました。12月7日の朝、四男の定雄が飛行機が上空を飛んでいるのを見て、寝ていた義春を起こしに行ったそうです。義春は「母さん、戦争だ。行ってくる」とだけ言って家を飛び出していったそうです。

それから1週間経っても何も連絡がなく皆が心配していたところ、伯母の家に電話が入り「詳しい居場所は言えないが、ヌウアヌパリに来てほしい。おにぎりとおすしが食べたい。パリ峠に着いたら、ホーンを数回鳴らして」とだけ言ったそうです。

母と伯母は、早速おにぎりや巻きずしを作り、私も伯父や伯母に連れられてヌウアヌパリに向かいました。恐る恐るホーンを鳴らしたら、義春と友達が茂みから出てきて食べ物を受け取りました。未だにその真相は闇の中です。

 

祖父が収容される

伯父たちは、第100歩兵大隊、第442連隊、招集兵として次々と出征していきました。1943年、祖父母が家で母の日を祝っているときに、突然、軍警察が訪れ、敵性外国人の疑いをかけられた祖父は、サンドアイランドに連行されました。

祖父は取り調べの際、日の丸を「踏みにじれるか」と聞かれましたが拒否したため、さらに検問され、短気な祖父は「戦争に行ったおらが息子ば返せ!」と怒鳴ったので、それから数カ月間、ホノウリウリ収容所に収容されました。

母と伯母は、おにぎりやお弁当を作り、私を連れて慰問に行き始めました。まもなく近所の人も収容されたので、彼の奥さんと3人の子どもたちと共に慰問するようになりました。私たち子どもは3歳くらいでしたから、深刻な事態だとは思わず、楽しい遠足に行くような感覚でした。

意固地な祖父は息子5人が米軍兵になっても、最後まで「日本が勝った」と言い張っていました。

8歳か9歳の頃、伯父・定雄と妹(左)と

 

 

Joanne Ninomiya
1940年ホノルル生まれの日系2.5世。1962年ハワイ大学マノア校日本語学部を卒業。1963年慶応義塾大学に8カ月間留学。1964年日本語ラジオ局KZOOに入社。1967年日本語テレビ局KIKU TVに入社。1981年ケーブル日本語テレビ放送局・ビデオ制作・翻訳を主業務とするJN Productions を設立。ハワイに「キカイダー」ブームを起こした立役者として知られる。

(2019年5月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年5月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

ライトハウス・ハワイのおすすめ記事

元シェブロン社経営幹部 ウォーレン・スミス

2019.09.20

    幼少の頃のワイキキやアルバイトを回想する 私は1936年に、当時米領土だったパナマ運河地帯に生まれました。母方の祖父母はポルトガルからの移民で、母はホノルル生まれのポルトガ...

元ハワイ日米協会会長 アール大川

2019.09.20

    かつてのワイアルアやえひめ丸事故を回想する 私はワイアルアのランチキャンプ生まれの日系3世です。母方の祖父母は熊本県出身で、父方の祖父母は山口県大島郡の出身です。祖父母は砂...