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予備軍に志願したときのことやかつてのハワイを回想する

 

私は、1942年に福岡県に生まれました。子どもの頃から建築模型を造るのが好きで建築に興味があったので、知人の家に下宿をしながら法政大学に通い建築を専攻しました。大学卒業後は他の人とは違う経験をしたいと思い、米国大手のダニエル・マン・ジョンソン・メンデンホールの東京支社に2年勤めました。

外資系の会社の雰囲気に触れてから、苦労してもアメリカで勉強したくなり、インディアナ州の学校に通いながら建築設計事務所で働くことができる会社を見つけました。永住権は会社が申請してくれたのですが、ベトナム戦争の時代だったので1年後に徴兵通知が来たのです。

親は「日本に戻りなさい」と言いますし、会社に相談すると、会社が「日本庭園を造る仕事を請け負ったので鈴木が運営に必要です」というような嘆願書を書いてくれました。でも、当時、米国市民のみならず米国で収入のある26歳以下の男性には徴兵通知が送られ、誰もが戦地に送られるような時代でしたから通用しませんでしたね(笑)。その後、予備軍に志願したら戦地には送られないだろうという話を聞いたので、腹をくくって志願しました。

カリフォルニアで訓練を受け、工兵の仕事を4カ月した後、インディアナポリスに戻りました。その後は元の会社で仕事をしながら、月に1度だけの軍隊訓練を6年間しました。それまでとは違ういろんな経験ができましたし、未だに付き合いのある友達もできましたから志願して良かったです。志願していなかったら、召集されて戦地に送られていたかもしれません。

 

かつてのホノルル

予備軍に居たとき、軍隊訓練でホノルルに来たことがあります。それまで白人の多い所に居たのでハワイは東洋人が多く、日系人はとても親切だと思いました。1967年には、ワイアルアの知人の家に1カ月居候して、ハレイワで泳いだり、ホノルルを散策して歩きました。やはり建造物に目が行き、ハワイ独特の古い石造りのセント・アンドリュース教会やカワイハオ教会に何度も通いました。当時ワイキキにはハワイ風のレストランCanlisがあり、小さな滝があってウエイトレスは着物を着ていましたね。

1972年に縁があってホノルルに移住し、すぐに日本の大林組、鹿島建設、大成建設、清水建設などの開発の受注に取り掛かりました。リリハには、ハワイ王朝時代には王族しか入れなかったクナワイ温泉がありました。その地にあった料亭と木造の旅館を取り壊すことになり、跡地に建設するコンドミニアムの設計に携わりました。この池は部分的に残っています。

昔からハワイで面白いと思う建物は、ワイキキ・ギャラリアタワーです。建物をコンクリートのパネルでパイナップルのように囲み、その外窓枠とビルの間に窓拭きのための通路が造られているのは素晴らしいと思います。昔ハワイには趣きのあるハワイ風の建物がありましたが、だんだん超モダンなものに代わってきています。開発も必要ですが、どこで歯止めをするかも考えないといけませんね。

 

1992年、マグロやマヒマヒの大漁

 

 

Toshisuke Suzuki
1942年福岡生まれ。法政大学工学部建築科卒業後ダニエル・マン・ジョンソン・メンデンホール東京支社に入社。1967年にインディアナ州の建築会社に入社。翌年徴兵通知を受け取り、予備軍に志願してカリフォルニアで訓練を受ける。1972年にハワイに移住し、ティーム・パシフィック社に入社。その後独立し、T.Suzuki Architects, Inc.などを経て、現在はRMA Architects Inc.に商業建築部取締役として勤務。

(2018年5月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年5月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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