かつてのカリヒや獣医の仕事を回想する
私は1943年にクアキニ病院で生まれ、カリヒで育った日系3世です。父方の祖父母は広島県の出身で、母方の祖母も広島県、祖父は千葉県の出身です。祖父母は典型的な日本の考え方や価値観を持っていました。特に母方の祖母は厳格だったので、「日本人と結婚しなさい」と私と妹に命じましたが、妹は祖母の意向にそむいたので勘当されてしまいました。
母は主婦でしたが秘書や通訳の仕事もし、父は商業用の氷を配達する仕事をしていました。毎朝4時に起きないといけませんでしたが、子どもの頃よく父について行きました。製氷工場に氷を取りに行き、レストランやバー、レイ・スタンドに配達し、朝10時頃には終わっていました。父はいつも朝食をおごってくれたので、それに釣られて行っていたのです(笑)。
父が氷に携わる仕事をしていたので我が家には今の冷蔵庫に当たるアイスボックスがありました。食器棚のような木製3段のアイスボックスに氷と食べ物を入れていました。
当時、キング通りとモカウエア通りの角にはムラオカストアというデパートがありましたし、その隣にはピグリー・ウィグリーというスーパーマーケットがありました。 カリヒには 日系人や白人のほか、中国系、韓国系、ポルトガル系、プエルトリコ系、フィリピン系の人が仲良く住んでいました。
近所の人とは挨拶を交わし、民族に関係なく近所付き合いがありました。隣人との信頼関係があったので、誰も家に鍵をかけませんでした。山に行って、マンゴーやグアバなどの野生の果物を持ち帰った際には、誰もが近所の人におすそ分けをしていました。
獣医になる
子どもの頃は小児科医になりたいと思っていたのですが、従兄弟が9歳で白血病で亡くなるのを見て私には向かないと思い、カンサス州大学の獣医学科に進学しました。当時はまだ日系人に対する差別があり、JAP(ジャップ)と侮辱されたりしました。でも私は12歳から柔道を習い、黒帯ですから、いざとなれば相手をやっつけられますから気に留めないようにしました。
獣医学科を修了後、陸軍に志願し、アトランタで食品検査や軍用犬の訓練をしました。当時はベトナム戦争の最中で、兵士が戦地に入る前に地雷がないかどうかなどを確かめるための軍用犬を調練していました。
その後ハワイに戻り、38年間獣医をしました。生き物相手の仕事ですから週末仕事をすることも多々ありました。早朝から夜まで12時間以上診療所で動物を診て、その後カフクやワイマナロなど遠方の家畜を診に行くこともよくありました。毎日25匹〜30匹の動物を診ていたので延べ約20万匹の動物を診たことになります。
私は1年生から9年生まで、放課後にカリヒ日本語学校に通い、毎日1時間、主に会話を学びました。正直な話、当時は日本語を習うのはいやだったのですが‥片言の日本語が話せるために日本人の方も当院に来てくださったので日本語学校に行って良かったと思っています。
Clifford T. Kumamoto
1943年ホノルル生まれの日系3世。1961年ファリントン高校卒業後後、ハワイ大学マノア校に進学。1964年にカンサス州大学に転校。1970年同校獣医学科を修了後、米国陸軍に入隊しアトランタに駐在。1972年にパロロ地区の動物診療所Animal Clinic. Inc.に招聘され、ハワイに戻り獣医として勤務。1995年に同院の後継者になり、2010年に引退するまで毎年約5000匹の動物を治療する。柔道2段。
(2018年9月16日掲載)
※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年9月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。