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元ハワイ大学言語技術機関職員   ダニエル・トム

 

 

子どもの頃のワヒアワの思い出

 

私は1946年にワヒアワに生まれ育ちました。父方の祖父母は中国系1世で母方の祖父母は福島県出身の日系1世ですので、私は日中系3世です(笑)。子どもの頃、家の近所には白人、フィリピン系の家もありましたが、日系人の家庭が多く、東洋系の友達とよく遊びました。

当時は、夫婦で細々とやっている雑貨屋があちこちにあり、マリーゴールド・マーケット、トムズ・グローサリーというお店がありました。学校には皆が歩いて行き、放課後には日系の駄菓子屋やおかず屋によく行きました。まだスーパーマーケットはありませんでしたから、行商の人がよく行き来していました。 祖母の家には、軽トラックに魚やお肉を積んで売りに来る人がいましたし、オルゴールのような音楽を鳴らしてアイスクリームを売りに来る人もいました。バスに野菜や日用雑貨を積んで売りに来る行商人もいて、動く雑貨屋さんという感じでしたね。

カメハメハ・ハイウェイにはキャスナーというデパートがあって、文具売り場に行ったり、いろんなものを見て歩くのが楽しみでした。ワヒアワ劇場、ヴァーシティ劇場という映画館があり、マンガ映画を見たのを覚えています。毎朝、デイリーマン社の瓶詰にされた牛乳が家々に配達されていましたし、学校の遠足で牛乳工場に行って、乳しぼりから瓶詰にするまでの過程を見学したこともありました。クリスマス時期にはワヒアワの兵舎に行って電飾を見るのが楽しみでした。

毎年暮れには、母方の祖父母の家で杵と臼で餅つきをして、女性たちは、ついた餅を丸めて、餡子餅、きなこ餅、ぼた餅、鏡餅などを作りました。春節には糖という果物の砂糖菓子を食べたのを覚えています。

 

パイナップルの町

ワヒアワは、かつて世界のパイナップル中枢と呼ばれ、ハワイアンパイナップルとCPCという会社があり、辺り一面パイナップル畑でした。母方の祖父もご多分にもれずパイナップル畑を運営する農夫でした。当時は、写真見合いで日本からお嫁さんを迎える人が多かったので、祖父も写真を見て気に入った女性と結婚するために日本に行きました。でも実際に会ってみたら、その人は農夫の妻になるには相応しくないことが分かり、別の人から紹介された祖母・ていと結婚しました。ですから祖母は冗談で「代替写真花嫁」と言われたこともありました(笑)。祖父母のような縁組はあまりなかったのでバーバラ・カワカミ著の「ピクチャーブライド」という本にも祖母のことが載っています。祖父母はパイナップル生産の仕事に明け暮れる日々でしたから、母はパイナップル畑で生まれたと聞いています。

当時はまだファーストフード店やスーパーなどはありませんでしたから、学生アルバイトは、パイナップル缶詰工場で働くことくらいでしたね。私は高校生から大学1年生まで、夏休みにはイヴィレイにあったリビーズ缶詰工場でアルバイトをしました。

思い返せば、昔はのどかでゆったりとした時が流れていましたね。

4年生か5年生の頃、両親と

 

Daniel Tom
1946年ワヒアワ生まれ。日系と中国系の3世。1968年ダートマス大学歴史学部卒業。1971年ワシントン大学中国史修士号取得後、台湾台中市のモリソン・アカデミー、東海大学で教師を務める。1978年ハワイ大学北京語修士号取得。ハワイ大学、ハワイロアカレッジの北京語教師を経て1980年より2018年までハワイ大学マノア校言語技術センターのプログラムコーディネーターを務める。

(2019年3月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年3月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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