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戦時中や子どもの頃のヌウアヌの思い出

 

 

私は1940年にホノルルに生まれた日系3世です。父方も母方も祖父母は広島県出身です。父方の祖父はハワイで床屋をするために移民し、ホテル通りでホノルル・バーバーという床屋をしていました。それまでハワイの理髪師は男性でしたが、祖父はハワイで初めて女性の理髪師を雇いました。

子どもの頃、私の家は在ホノルル日本国総領事館の山側にありました。家の前には防空壕があり、家の地下には父の趣味だった写真の暗室があったので、戦時中は警報が鳴るとそこに逃げました。真珠湾攻撃の日、父は家の前で私と遊んでいたそうですが、日の丸の付いた日本軍の戦闘機が家の辺りで低飛行したので、乗っていた兵士の顔が見えたそうです。その後大きな爆音がしたのでラジオをつけると、真珠湾攻撃のことを報じていたそうです。米軍の高射砲が日本軍の戦闘機に向けて撃たれていましたが、戦闘機に命中しなかったのがヌウアヌやパウオア・ヴァレーに落ちて火事になり、亡くなった人がいたと聞きました。真珠湾攻撃の後、FBIが家に検問に来たそうですが、不審なものはなかったので帰っていったそうです。

イオラニ・スクールは、戦前ヌウアヌのクレイグサイド通りの辺りにあり、戦時中は学校が閉鎖され、軍が軍事施設として使っていました。毎朝、兵士たちが訓練に行くために家の前のヌウアヌ通りを行進して行ったのを覚えています。夕方、訓練を終えて家の前を通るときには軍服が泥で汚れていました。毎夕、祖母が日本語で「兵隊さんが来るよ〜」と教えてくれ、私たち子どもも座って行進を見ていました。時には戦車が通ることもありましたね。

 

ヌウアヌ

家の近所には中国系の家が2軒ありましたが、クニキヨ、イワイ、カワゾエ、ワタナベ、ホンゴウ、タカラという日系の家が隣組でした。でも、学校にはいろんな民族の子がいましたから、他の言語の単語を覚えたり、ピジン英語で話したりしました。フィリピン系の子はお父さんのことをタタと呼んでいましたし、中国系の子はお爺さんのことをグングンと呼んでいました。中年の男性は、誰もが日本語でオジサンと呼んでいましたね。

6年生のときには、金井ヒロミチ君という同級生の家によく遊びに行きました。彼はその頃ヌウアヌ通りに建設されていた曹洞宗寺院の僧侶の息子で、彼のお母さんは、毎回おせんべいなどのおやつを出してくれました。休日は、友達とヌウアヌ川でめだかやオオプなどの魚を獲ったり、港でマモという魚を獲ったりしました。

一年年上のチオジオジ・ヒロアキ君の父親は、野菜などをトラックに積んで売り歩く行商をしていました。家の前にトラックを止めてホーンを鳴らすと、近所の女性たちが一斉に野菜を買いに来ました。僕ら子どもたちは、隙があるとお菓子を盗んだりしました(笑)。後にチオジオジ君は海軍の少将になりました。

私はウクレレに出会い、大学で音楽を教えるようになりましたが、作曲をするときは、昔のヌウアヌの自然を思い出します。

4歳の頃、ヌウアヌの家の前で祖母と

 

 

 

Byron Yasui
1940年ホノルル生まれの日系3世。13歳からウクレレを独学で学ぶ。1965年ハワイ大学マノア校教育学部卒業。1967年ノースウエスタン大学音楽学部修士号取得。1972年同校作曲学博士号取得。同年よりハワイ大学マノア校音楽学部で教鞭を取るかたわら、ウクレレ奏者、ベーシスト、ギタリストとしてホノルル・シンフォニー・オーケストラなどで活躍する。2006年CD「Anahola」をリリース。

(2019年2月16日掲載)
このページは「ライトハウス・ハワイ 2019年2月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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