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幼い頃や徴兵、ハワイとの不思議な縁を想う

 

私は1936年にカリフォルニア州ナショナルシティに生まれました。私が5歳のときに真珠湾攻撃がありました。母がラジオでそのニュースを知り「日本軍がここにも襲撃に来るかもしれない」と動揺していたのを覚えています。

その日から電気を付けずに生活し、夜、暗闇の中で食事をしたので、母は暗くてよく見えないのを利用して、私の嫌いな野菜を食べさせようとしたのだと思っていました(笑)。

子どもの頃はよく引っ越しをしたのですが、サンフランシスコ郊外のサンタロサ小学校はとてもへんぴな所にあったので、1人の先生が16人の全校生徒を一つの教室で教えていました。高校卒業後は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学しました。

当時アメリカはベトナム戦争に参戦していましたが、私は戦争に反対していたので、義務兵役年齢になったとき、良心的拒否(conscientious objection)を申請しました。良心的拒否というのは、戦争に参加することや義務兵役されることを望まず、兵役義務の代わりに、戦闘に行かない兵士や民間人として国の役に立つことを申請することです。 ご多分に漏れず徴兵され陸軍に入隊しましたが、その申請をしていたおかげで、私は看護兵になりテキサスで訓練を受けました。

 

ハワイに移住

私はホノルルのトリプラー陸軍病院に配属されることになり、1960年にハワイに来ました。当時は病院の兵舎に住んでいましたが、休日はワイキキやマカプウ海岸で泳いだり、コオラウ山脈にハイキングに行きました。

今では考えられませんが、当時はワイキキには高層ビルは数えるほどしかなかったので、少し離れた所からでもワイキキの海がよく見えました。

その頃、父から、父方の高祖父はエドワード・ベイリーという宣教師でマウイ島ワイルクの女子神学校の先生だったことや、祖父はハワイ島のホノカアで生まれたと知らされました。それまで自分の先祖がハワイと繋がりがあると知らなかったので、早速マウイ島に行って自分のルーツを探りました。

高祖父母は1837年にマウイ島に船で訪れ、1844年から5年間、夫婦でワイルクの寄宿制の神学校を運営し、キリスト教、読み書き、算数、裁縫などを教え、高祖父は独学でハワイ語や油絵を学んだと知りました。また、ハワイにはたくさんの親戚がいると知り、びっくりしました(女子神学校があった所は、今はベイリー・ハウス美術館になり、19世紀初頭の生活道具などが一般公開されています)。

その後結婚し、新居を探しに賃貸物件をあちこち見に行きました。セントルイスハイツの物件の家主に電話をすると、初めは「日系人に貸したい」と断られました。でも、その家に住みたいという私の熱意が通じて、家主は私たちを店子に選んでくれました。今は違法ですが、当時は日系人差別とその逆の差別もありました。

1960年代には、ワイキキ海岸にもいろんな魚がたくさん泳いでいました。昔に比べハワイの自然はだんだん少なくなっていますが、次の世代の人には、このハワイの自然の美しさを保つ努力をして欲しいと思います。

12歳のとき、コンテストで優勝したポスターを手に

 

Duene Preble

1936年カリフォルニア州ナショナルシティ生まれ。1959年カリフォルニア大学ロサンゼルス美術学部卒業後、徴兵されて陸軍に入隊し、テキサス州で訓練を受ける。1960年陸軍看護兵としてハワイに移住。1963年ハワイ大学マノア校美術学部油絵・デザイン学科修士号修了。1961年から1991年までハワイ大学マノア校美術学部で教鞭を取る。Sarah夫人との英文共著書にArtformsがある。

(2018年11月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年11月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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