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かつてのハワイ島やホノルルを回想する

 

 

私は、ハワイ島ヒロの北にある小さな村、ペペエケオに生まれました。父は沖縄系日系人の修理工で、母はイギリスとハワイアン系で、裁縫婦でした。私は幼少の頃、ペペエケオの母方の祖父母に育てられ、同じ家に叔父や叔母、従兄弟も住んでいました。当時ハワイアンの家庭では、広い意味でのオハナ(家族)という考え方があり、祖父母や親戚の人に育てられることはよくあることでした。

キラウエア火山が噴火したときには、母方の親戚が火山の女神ペレのためのお供えを火山まで持って行ったのを覚えています。家の近くに収穫したサトウキビを製糖工場に運ぶための用水路があったので、子どもの頃、用水路を今のウォータースライドのようにして遊んだり、よく縄跳びやおはじきをしました。

当時は誰もがはだしで、歩いて学校に行きました。放課後は日本語学校に行って読み書きを習いましたが「はとぽっぽ」の歌を習ったことくらいしか覚えていません(笑)。学校の帰りには、イシズストアという雑貨屋でソーダやお菓子を買うのが楽しみでした。

真珠湾攻撃の後、学校の校舎の半分は軍が使うようになりました。ですから全校生徒を半分に分け、午前中だけ学校に行く生徒と午後だけ行く生徒に分かれました。万が一の場合に備えてガスマスクを持って防空壕に駆け込む練習がよくありましたし、灯火管制が敷かれて、家の窓を全て黒いもので被い、暗い中で過ごしたのを覚えています。

 

ホノルルに移転

私が9歳のときに祖父が亡くなり、私はホノルルの両親の元に送られました。妹は7歳半でしたが、両親から日本式のしつけをされたので、すでに料理をすることができましたし、弟の面倒もみていました。妹ができても、私にはできないことがたくさんあったので、父に怒られてお尻を叩かれたり、自分は長女なのに役立たずだと感じて辛い思いをしました。

そんな生活がイヤだったこともあり、私はホノルルのカメハメハスクールで先生をしていた叔母を頼り、同校に転校して寮に入りました。夜、丘の上にある学校からホノルルを見渡すと一面街明かりでキレイだと思いました。初めて祖父母や両親と離れて生活することになりましたが、しつけの厳しい実家に帰りたいとは思いませんでした。当時の私の目標は先生になることでしたから一生懸命勉強して優等生だったのですが、そのために他の生徒から妬まれたりしました。

高校卒業後は、ハワイ大学でグラフィックデザインを学びました。1970年代、女性が社長になることは稀でしたが、思い切って自分のデザイン会社を設立しました。事業家として成功するには、まず自分を演出することが第一歩だと思いました。髪を後ろでまとめて結び、フリルのついた花柄のような服を避けて、ビジネスウーマンに相応しい服を着て実業家らしく振舞うことから始めました。成功の秘訣は、自分の目標を達成するにはどうすべきかを考えて、それに向かって努力し続けることだと思います。

カメハメハスクール卒業式。両側は両親

 

 

Momi Cazimero

1933年ハワイ島ペペエケオ生まれ。カメハメハスクール卒業後、ハワイ大学マノア校美術学部グラフィックデザイン科卒業。1972年にハワイ女性初のグラフィックデザイン会社「グラフィック・ハウス」を設立し、カピオラ二・メディカルセンターのロゴの制作などに携わる。フレンズ・オブ・ハワイ・チャリティーズ理事、アロハフェスティバル名誉理事など各種団体の理事を務める。2005年度本派本願寺ハワイ人間国宝受賞。

(2018年6月16日掲載)

※このページは「ライトハウス・ハワイ 2018年6月16日」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

 

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