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第7回【グーリックアベニュー】カリヒ地区の住宅街を貫く道

 

ABC順に道の名に因むハワイの歴史や文化を紹介していますが、Gから始まる道の名は思いのほか少ない。その中でグーリック通りは、フィリピン系の小さな旅行社を訪ねた時にカリヒ地区で見つけた道ですが、ホノルル在住者にも馴染みの薄い通りの1つでしょう。リケリケ ハイウエイに通じるカリヒ通りに平行して、その西側を、キング、スクールと云った幹線道路やルナリロ(H1)フリーウエイを串刺しにするように、カリヒの中心部をマウカ(山側)に向かって伸びています。

 

この通りに名を遺したのはチャールズ トーマス グーリック。米国から来島した宣教師の家庭に1841年に生まれ、プナホウ校の出身です。米国人の子息の多くがハワイでの砂糖産業に携わり、王国の経済を動かし、後に米国への併合の動きを加速させていく中で、グーリックは稀。末路に差し掛かるハワイ王国側に立って行動した1人です。王国の市民権を取得し政治家としての道を歩み、第7代の王カラーカウアと、その妹のリリウオカラニ女王の下で内務大臣を務め、1893年1月にリリウオカラニが王権を放棄する直前には、同胞を集め女王を支援する行動を取っています。

王国が終焉を迎え、ハワイが共和国として存続していた1885年のこと。武器を取っての王政復古の動きが起きます。リリウオカラニの邸宅から武器が見つかったと云う嫌疑で、女王は共和国への反逆罪で起訴され、5千ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたものの、後日、反逆に関する犯罪隠匿の罪に軽減され、イオラニ宮殿に幽閉されます。この一連の検挙で、180人余りが起訴され有罪判決を受けますが、グーリックもその時、反逆罪で捕らえられ、1年ほど収監されました。

ハワイの行く末を王国側から案じ、ハワイが米国の準州になる前、1897年に56歳で亡くなった

チャールズ グーリックの名を冠した通りには、カリヒ ヴァエナ小学校の他、マナプアの製造元やテイクアウトのお店、ローカル風の中華料理店を見かけるものの、道の両側は住宅がほとんど。フィリピン風の造りの家も立ち並ぶ道は、カパーラマ丘のカメハメハ校を右(東)に見て、人通りの少ない細い道になり、山に向って続いて行きます。

 

(2018年3月1日掲載)

執筆 David

◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む

 

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