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第18回【リチャーズ・ストリート】ハワイ語の聖書を完成させた米国人

 

 

ハワイ州庁舎とイオラニ宮殿の西側に沿って、ベレタニア通りからホノルル港に向かう一方通行の道がリチャーズ通り。カメハメハ3世により1850年に名付けられた、ハワイ王国の歴史の香りがする道です。アラモアナ ブルバードに接するところで終わりますが、19世紀にはクイーン通りまで海岸が迫っていました。

この道路に名を残すウイリアム リチャーズはマサチューセッツ生まれの牧師で、カメハメハ2世の時代、1823年に第2次宣教師団の一員として来島。マウイ島ラハイナを拠点としてキリスト教の布教と、自らも教鞭を執り教育に努めた人でした。教会を建て、ラハイナルナ校を設立し、ハワイアンの人々に英語を教え、同時に彼自身もハワイ語の研鑽を積んでいます。晩年をラハイナで過ごしたカメハメハ大王のお后でカメハメハ2世と3世の母、ケオープーオラニの最期に洗礼を司ったことも伝えられています。

一方、欧米の貿易船や捕鯨船が多く入港したラハイナの町の治安は乱れ荒廃の一途をたどり、その改善に腐心した1人でもあります。1838年には牧師を辞し、ホノルルに移り政治の道に進み、カメハメハ3世の助言者と英布通訳としての人生を歩みました。1842年には3世の命を受けハワイ王国の承認を求め英仏米を訪問して交渉にあたり、1840年に制定された王国憲法ハワイ語草案策定にも加わり、晩年は議員や大臣の要職も務めています。

ハワイ語に精通した宣教師達は聖書のハワイ語への翻訳に心血を注ぎ、1839年にハワイ語版聖書「カバイバラ へモレレ」が完成しますが、ウイリアム リチャーズは政治に携わるようになってからも

翻訳者の1人としてハワイ語聖書の完成に主導的役割を果たしました。

さて、リチャーズ通りには古い建物が幾つも残されています。

リチャーズ通りとホテル通りの角に建つ、州立美術館としても使われている白い建物は1872年、カメハメハ5世の時代にハワイアン ホテルとして建てられたもので、第一次世界大戦中はYMCAが運営する兵士用の宿泊施設としても使われていました。

ホテル通りとキング通りの間に在るYWCAは、ハワイが米国の準州であった時代、1927年に建てられたコロニアル風の建築物で、屋外プールも在るこの建物を設計した女性、ジュリア モーガンの名を残すレストランが一階に在ります。

キング通りの海側に在る郵便局は、米国準州時代の連邦事務所と税関、裁判所として使われていた建物。

そして、リチャーズ通りに接するイオラニ宮殿の前庭では、世界1周の旅から帰国したハワイ王国第7代の王カラーカウアが、1883年(明治16年)2月に戴冠式を行っています。

 

 

(2019年2月1日掲載)

執筆 David

◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む

 

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