ハワイ州で一番背の高いビル、ファースト ハワイアン バンク本店の屋上に立てられたクリスマスを祝う大きな星の電飾も、1月になりそろそろ仕舞われる時期になりました。銀行のダイアモンドヘッド側に沿ってホノルル港から山に向かって伸びる一方通行の道、アラケア通りは、ベレタニア通りとの角、セント アンドリュース カテドラル教会の前から、クイーン エマ通りと名前を変えてH1フリーウエイの先まで続いています。
この通りに名を残すエマは、カメハメハ大王が8島を統一して王国を創り上げた時、腹心の部下の1人として行動を共にした英国ランカシャー生まれの船員、ジョン ヤングの孫で、4分の1英国人の血が流れていました。ホノルルで生まれてすぐ英国国教会に属するトーマス ルーク医師の養女となり、エマ ルーク20歳の時、カメハメハ大王の孫の1人でハワイ王国4代目の王、カメハメハ4世と結婚。2年後の1858年には息子のアルバート王子が誕生。パンチボールの丘から祝砲が放たれ、ホノルルの町はお祝いムードに包まれたとか。
英国贔屓であったとも伝えられる4世は、英国のビクトリア女王に嘆願し、1862年に英国国教会
カンタベリー大主教により選ばれたハワイ教区主教をハワイに迎え、イオラニ宮殿に近い王領の土地を与えます。そこに建てられた教会が他ならぬ聖アンドリュー大聖堂で、由緒ある英国風の教会は現在、米国聖公会のハワイ主教座聖堂になっています。
夫君カメハメハ4世は、自分の後継の王として指名した最愛のアルバート王子を4歳で亡くした翌年、自身も体調を崩して29歳で他界。1人残されたエマ王妃は気丈に振る舞い、パリ ハイウエイ沿いにエマ王妃夏の離宮として今も残る館に住み、その後も英国との関わりを持ち続けました。1865年には、1年半近くにおよぶ欧州への旅に出て、英国に6か月間滞在。建設が続けられていたセント アンドリュース教会の聖堂建設と附随する学校開設のため英国内で精力的に募金活動を行い、多額の浄財を集めて帰国。英国を発つ前にはビクトリア女王からウィンザー城に招待を受け、ハワイへの帰路にはワシントンD Cも訪問し、アンドリュー ジョンソン第17代米国大統領とも会見しています。
エマ王妃は、日本からハワイ王国への官約移民が始まった年、1885年(明治18年)に他界。49歳でした。カメハメハ4世により王領の1等地が与えられ、エマ王妃の努力もあり建てられたセント アンドリュース カテドラル教会の聖堂には、ハワイ王国と英国との関係を重んじた2人の肖像がステンドグラスにはめ込まれており、ハワイの太陽の光に照らされて輝いています。
(2019年1月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む