ハワイ現地発!最新生活情報&おすすめ観光情報サイト

第14回【ヌウアヌ・パリ・ドライブ】ヌウアヌ・パリの峠近くに残る旧道

 

貿易風がコオラウ山脈にぶつかり、吹き上げる様を体感出来るヌウアヌ パリ。展望台の下をトンネルで抜けるパリ ハイウエイが完成した後も、この峠近くのハイウエイ沿いに一部残されている旧道がヌウアヌ パリ ドライブです。

道は舗装されていますが、周囲は密林。水源を守るために水道局が管理している森に勝手に入ることは出来ないのですが、許可を得て、ハイウエイの東側の道に沿ってうっそうと茂る木々の間をしばらく歩くと、コアの大木の中に石組の壁だけが残る、廃墟となった建物の跡が見えてきます。1840年代にカメハメハ3世によって建てられた「カニアカプープー」と呼ばれる夏の離宮です。生育の早い植物に覆われ日の光が届かず蒸し暑く蚊も飛んでいて、何でこんなところに館を建てたのだろうと思わずにはいられないところですが、当時はホノルルから通じる坂道が石で舗装され、馬車も通れる道に改良され、周囲は見晴らし良く切り開かれていたのでしょう。多くの人々が行き交うホノルルの町を離れて、貿易風が心地良く吹き降ろす山中に造られた別荘でカメハメハ3世とその家族が静養し、人々を招いていた様子が想像出来ます。

オアフ島の背骨の様に長くのびるコオラウ山脈。その昔、一般の人達は、神々の住む山の高み、そして共同生活地域である「アフプアア」の境界線でもある山の頂を越えて、他の地域に入ることは許されていなかったのでしょうが、王やアリイ(首長)のために生鮮食料を運んだりした飛脚のような人達が、絶壁の溶岩むきだしの危険な細道を走っていたことが伝えられています。

カメハメハが大砲も引っ張り上げて敵を追い落として勝利して、王国を創りあげた最後の戦場ヌウアヌ

パリへの道は、19世紀になりホノルル港に多くの外国船が入り西欧人も住むようになり、町の人口が増加してくると、険しい道ながらも、海をカヌーで遠回りすることなく、島の裏側からタロイモや鳥、豚等の食料品をホノルルに運ぶ近道として使われるようになりました。大王の次男であるカメハメハ3世の時代、1840年半ばには峠への道は石で舗装され、第8代女王リリウオカラニが王権を放棄して王国の時代が終わって4年後、ハワイが共和国として存続していた1897年(明治30年)には、6~7メートルくらいの幅の道路が完成しています。

現在はパリ ハイウエイを通って簡単にカイルア方面へ抜けられますが、ヌウアヌ パリ ドライブを走ってみると、こんな歴史があったことも思い起せるでしょう。

 

(2018年10月1日掲載)

執筆 David

◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む

ライトハウス・ハワイのおすすめ記事

第25回【アオレレ・ストリート】空港の周りには雲を表す通りの名が

2019.09.20

        ダニエル・K・イノウエ国際空港。ホノルル空港に上院議員の名が付けられたのは2017年4月。ヒッカム空軍基地と滑走路を共用しています。  アオレレ...

第24回【ヤング・ストリート】カメハメハ大王を支えた英国人

2019.09.20

      ジョン・ヤングは1744年ランカシャー生まれの英国人。  ヤングの名を冠した通りが、ホノルル美術館前のトーマス・スクエアから、ハワイ日本文化センターの前のモイ...