幹線道路の名をノースとサウスに分けるホノルルの中心ヌウアヌ通りを、マウカ(山側)に向かい、日本国総領事館前を更に丘に上って行くと、オアフ墓地の手前でジャッド通りと交差します。1828年に第3次宣教師団の一員として夫妻で来島した医師、ゲリット ジャッドに因んだ通りの名です。
1803年、ニューヨーク州生まれのジャッドは、キリスト教の海外伝道に大志を抱き24歳で来島。伝道と医療、教育、そして王国の政治に深く携わりました。宣教師にとって、伝道のみでなく教育や西欧文化を説くために現地語を学習することは必要不可欠でしたので、ジャッドは婦人と共にハワイ到着前からハワイ語を学び、ホノルルでハワイ語による聖書作成に携わり、1840年にカメハメハ3世が署名したハワイ語で書かれた王国憲法の起草にも加わりました。19世紀半ば、3世が率いるハワイ王国は、米英仏の列強に領土を奪われそうになる危機に遭遇し、それに対応する1つの策として先進国同様に憲法を定め、小国ながら1つの国として他国に認めさせる必要に迫られていたのでした。
さて、オアフ島コオラウ山脈の北東部に、クアロア牧場が在ります。高い山の頂から大きく広がる谷、そして海岸まで広がるネイティヴハワイアンの共同生活区域「アフプアア」のひとつです。実はここもゲリット ジャッドの所有地でした。
1848年、それまで土地私有の観念が無かったハワイで、カメハメハ3世は「グレート マヘレ」と呼ばれる土地の分配を行います。この時に3世が王領として確保したクアロアの土地を、後にジャッドが購入。3世の没後、お后のカラマから近隣のアフプアアを更に買い足して今の広大な私有地になりました。当初は砂糖農園として使われましたが、現在は牧場として、またハワイの文化や歴史を学びながら牧場の体験が出来る観光地として発展しています。
ところで、晩年のカメハメハ3世は、英仏に領土を明け渡すよりは米合衆国に譲るほうがましではないか、と思いあぐんでいた節がありますが、ジャッドも又、ハワイ王国は将来、米国に領土を譲らなければならなくなるのでは、と憂慮していた様子がうかがえます。
ゲリット ジャッドは3世の下、米英仏の列強からの圧力に悩まされ続ける19世紀半ばのハワイ王国の存続に貢献し、政治に心血を注いだばかりでなく、医者として、外来の病気が原因のネイティヴハワイアンの極端な人口減少を憂い、その教育にも力を注いだ人でした。生前ニューヨーク州に戻ることはせず、1873年にホノルルで他界。ジャッド家代々のお墓は、ジャッド通りが面するオアフ墓地に在ります。
(2018年6月1日掲載)
◎ ビショップ博物館ドーセント
旅行会社勤務時代よりビショップ博物館でドーセントのボランティアを開始。2003年より同博物館の会員代表機関 Bishop Museum Association Council の唯一にして初の日本人メンバーに。ハワイの歴史、文化の研究に取り組む