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サーフィンの聖地、ハワイ・ノースショアで生きるサーファーたち

サーフィンの聖地・ノースショア
Waimea Shorebreak © Clark Little

オアフ島ノースショアは、毎年冬になると世界中で一番美しく、また破壊的な大波が訪れることで有名な地だ。中でもワイメア・ベイには30~40フィート(約9~12m)級の波が訪れ、多くのサーファーたちが命を懸けて波に挑む姿が見られる。そんなサーファーたち3人が、ビッグウェーブ・サーフィンとその魅力を語る。

一世を風靡した元プロ・サーファー~Brock Little / ブロック・リトル~

ブロック・リトル1990年代、最も大きく破壊的な波に乗るビッグウェーバーとして名を馳せたブロック・リトルさん。カリフォルニア州ナパに生まれ、幼い頃家族と共にハワイに移住してきた彼は、8歳の頃からノースショアに住んでいる。弟さんは、サーフフォトグラファーとして有名なあのクラーク・リトルさんだ。
 
「サーフィンは、ハレイワで弟と一緒にプロのサーファーに教えてもらいました。小さい頃から人より大きな波に乗りたいと思っていましたね」と話す。
 
その後頭角を現し、11歳の頃、カリフォルニアで初めてコンテストに出場。15歳の時には、初めてワイメア・ベイでビッグウェーブに乗ったという。
 
「高校を卒業して、ホノルルの2年制大学に通い始めましたが、サーフィンのことしか考えていませんでしたね。とにかく、サーフィンが楽しくて仕方ありませんでした」とブロックさんは話す。18歳の時にはサーフブランドがスポンサーにつき、彼のプロサーファーとしてのキャリアが始まった。

その後、オーストラリアや南アフリカ、ヨーロッパ、スペイン、インドネシアなど世界中を転戦。1991年には、ノースショアのワイメア・ベイで開催されたビッグウェーブ・コンテスト「エディ・アイカウ・インビテーショナル」で30フィート級の波に乗り、見事2位に入賞した。「少しでも大きな波に乗ることに夢中で、怖いと思ったことはありませんでした。まさに、クレイジーですよね」とブロックさんは笑う。「ビッグウェーブから学んだことは、『人生はいつ終わるか分からない』ということ。だからこそ、毎日を精一杯生きようと思えるんですよ」

ブロック・リトル現在はプロ生活を引退。ノースショアで暮らし、ハリウッド映画のスタントマンとして活躍する。今でもサーフィンは続けるが、昔のような大波にはもう挑戦していないという。
 
「ビッグウェーブ・サーフィンは、『この波に乗りたい』という燃えるような情熱がなくなったら、世代交代の潮時ですね。今は、楽しく波に乗る生活をしたいと思っています」

兄の死後に目覚めたスピリチュアル・サーファー~Clyde Aikau / クライド・アイカウ~

マウイ島で生まれ、現在ワイキキでサーフィン・スクールを経営するクライド・アイカウさん。「アイカウ」という名前に聞き覚えのある方も多いだろう。そう、彼はかの有名なハワイアンのビッグウェーブ・サーファーで、1978年に海難事故で亡くなった故エディ・アイカウさんの実弟である。

クライド・アイカウ「私が育った頃は、今のようなサーフボードはありませんでした。兄とともに、パイポボードという木製ボードを使い、ワイキキのウォールズやクイーンズでサーフィンをしたものです」と彼は話す。
 
「エディは私のインスピレーションでした。兄と一緒に、よくサーフィンのコンテストに出場したものです。67年には、エディがワイメアで史上最大といわれる40フィートの波に乗り、17歳だった私の大きな刺激になりました」
 
1973年には、ノースショアのワイメア・ベイで開催された「デューク・カハナモク・サーフィン・クラシック」に2人で出場。エディさんが1位、クライドさんは2位に入賞した。とにかく精神的結び付きが強い兄弟だった。

しかし1978年、ホクレア号に乗船したエディ氏が、海難事故で逝去。悲しみにくれたクライドさんはその後、深いうつ状態に陥ったという。「兄の死後1年間は、ノースショアに行けませんでした。そんなときに始めたウインドサーフィンが、兄を失った悲しみを忘れさせてくれました」

1983年までには立ち直り、またビッグウェーブ・サーフィンを始めた。「エディ・アイカウ・インビテーショナル」が初めて開催されたのは1986年。沖に向かいパドルアウトするクライドさんの前に、突然2匹のカメが顔を出した。

ノースショアのビッグウェーブ「カメが私に『着いて来い』と言ったのを聞きました。カメに誘導され、ほかの出場者よりも深い位置で待機していたら、大会一番の大波がちょうど私のところへ来て、キャッチすることができました」とクライドさん。その大会で優勝したのは兄の導きで、決して偶然ではなかったと信じている。
 
65歳の彼は、今年もワイメアのビッグウェーブに挑戦する。今はそのトレーニングのため忙しい毎日だ。
 
「今は、21歳になる息子が私にインスピレーションを与えてくれます。ビッグウェーブに乗るためには、入念な準備と実力、そしてスピリチュアルな部分も必要です」と話す。「大切なのは、自分の心の内に平和を見出すこと。波にうまく乗ってエゴや大金を手にしても、それはゴミのようなもの。生きているうちに周りの人々への愛、そして自分自身の才能を表現すること。それが、私がビッグウェーブ・サーフィンや人生から学んだレッスンです」

子どもたちの育成に励むビッグウェーバー~Justin Lambert / ジャスティン・ランバート~

ジャスティン・ランバートさんは、3歳の時にテキサス州からオアフ島ノースショアに家族で移住。以来、30年近くこの地に住む。たとえハワイ州内でも、ほかの地に移る気は全くないという。「ここで育って、友人もみなノースショア出身。もうすっかり根が生えてしまってますから、ほかの土地では暮らせないと思います」

ジャスティン・ランバートそんな彼は8歳の頃、ワイメア・ベイでサーフィンを始めた。ボディサーフィンから始めて、13歳頃からボードを使ったサーフィンに転向。ワイメア・ベイでは、20~30フィート級の波に挑戦する。

「波が20フィート以上の日は、何を置いても海に出るようにしています。妻も理解してくれますよ。もちろん、仕事はちゃんと行きますけどね」と結婚したばかりの彼は笑う。

一時プロ転向も考えたというジャスティンさんは、サーフィン事故によるケガで病院通いをした経験が転機となり、ハワイ大学マノア校看護学部を卒業。現在は、フルタイムで看護師として働く傍ら、自身のアパレルブランド「CHANCE’EM(チャンスエム)」のオーナーとしても活躍中だ。ブランドは主に地元ノースショアの店に卸売りで販売し、利益の一部は地元高校のサーフィンチーム活動資金用に寄付したり、イベントのスポンサー費用などとして使う。彼は、「地元の子どもたちを健全に育成し、サーフィンの才能を伸ばす手助けをしたい」と話す。「家庭が貧しかったり、精神的・金銭的なサポートがなかったりして、せっかくサーフィンの才能があっても埋もれてしまう場合があるのです」

ジャスティン・ランバートそう言う彼の家庭も、決して裕福とはいえなかった。「自分には与えてもらえなかったサポートを、僕が与えてあげたいですね」と彼は話す。
 
ジャスティンさんにとって、ビッグウェーブ・サーフィンは、「生きるための原動力」だ。「ひとつ間違えば死に至る危険ももちろんあります。だからこそ、命への感謝と、人生を思いきり生きようというやる気が心に芽生えてくるのです」
 
(‘Eheu Winter 2015号掲載)

※このページは「‘Eheu Winter 2015」号掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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