ハワイ王国最後の女王・リリウオカラニ

ハワイの道から辿るヒストリー:リリウオカラニ・アベニュー

ワイキキではなく、ダウンタウンのハワイ州政府庁前、イオラニ宮殿裏にあるリリウオカラニの銅像

ハワイの行く末を案じて

ハワイ語と英語に精通し、音楽家としての感性を持ち合わせた女王、リリウオカラニの名を冠した通りがワイキキの海岸からアラワイ運河に向かって続いています。しかし、リリウオカラニ女王の人物像に迫るには、一度ホノルルのダウンタウンに行ってみる必要があるでしょう。イオラニ宮殿の裏手に、宮殿に背を向けて州会議場の山側、州知事公邸を見るかのようにリリウオカラニ女王の像はあり、薬指に指輪をした左手には何かを持っています。近づいて良く見ると、巻かれた3枚の紙のようなものを手にしています。その1枚目はアロハオエの楽譜です。女王の作詞作曲による、今はお別れの時に歌う曲ですが、王国終焉の2年後、1895年にハワイ共和国への反逆の容疑を掛けられイオラニ宮殿2階の一間に幽閉された時に作詞作曲したという説があります。しかし、どうやら実際にはそれより前に、オアフ島北部の牧場で妹のリケリケ王女が西欧人の男性との別れを惜しんでいる光景を歌ったものだったとか。リリウオカラニは兄のカラーカウア王と共に、この他にも作詞作曲した曲を数多く残しています。そして、2枚目にはアルファベットでクムリポと書いてあります。これはハワイアンの人たちにとっての創世記ともいえる神話です。書く文字を持たなかったポリネシアの人々がよく記憶できたと思うほど長い16章からなる詠唱で、英語に堪能であったリリウオカラニが、兄のカラーカウア王の依頼で初の英訳をしたものです。ハワイ文化とハワイ語の深い意味合いを理解できなければ英訳も不可能であったでしょう。

ハワイには「ハーナイ」と称される養子縁組の習慣がありました。1838年9月、王家の血筋の中に生まれたリリウオカラニは、生まれてすぐカメハメハ系の一族、パーキー家にハーナイとして預けられ、育てられます。学齢に達してからは、王家の子女のための学校で寄宿舎生活をしながら、米国から来島した宣教師の下で英語での生活を送り、ハワイ語と英語のバイリンガルの若者として育ちました。そして、リリウオカラニは24歳の時、ニューヨーク州生まれのジョン・ドミニスと1862年9月に結婚。今もリリウオカラニ像が見守る位置にある、現在のハワイ州知事公邸「ワシントンプレイス」は、アドリア海北部から米国に移住した夫君の父が建てたもので、リリウオカラニは義母の没後から女王の時代、そして亡くなるまでここで生活をしていました。
 

ところで、兄カラーカウアが王であった時代の後半は、西欧人が多くを占める砂糖産業を中心とした王国の経済界が、米国への併合を模索するようになり王権を揺るがす事態に陥りました。カラーカウアは王権に制限を加える改定憲法に署名を強いられます。身体を壊した兄がサンフランシスコで客死して無言の帰国をした1891年1月、リリウオカラニは女王に就任。兄が署名させられた憲法への忠誠を誓うことを求められたのでした。悲運は続きます。ハワイ王国8代目の女王に就任してから積極的に各島の巡回をしていた最中のことでした。夫君ジョン・ドミニスが体調を崩し、同年8月にワシントンプレイスで女王の見守る中、この世を去ります。女王は、兄が改定を強いられた憲法を、カメハメハ5世が制定したハワイアンの人々に寛容かつ王権を強化した憲法に戻そうと試みます。しかしながらこれは西欧人主体の大臣に阻まれて実現せず、1893年1月に王権を放棄するに至ります。リリウオカラニ像が持っている3つ目のものは、この時女王が改定を試みた憲法草案です。
 
さて、ワイキキには女王にちなんだ通りを探すと2つ見つかります。1つ目はパシフィックビーチホテル前をクヒオビーチからアラワイ運河まで貫くリリウオカラニ通り。もう一つはワイキキビーチマリオットのダイヤモンドヘッド側のパオカラニ通りです。現在のようにホテルやコンドミニアムが林立する以前のワイキキには、王族の土地や館が多くあり、現在のリリウオカラニ通りからダイヤモンドヘッド側が、女王が祖父から譲り受けた館が建つ土地でした。高貴な(王家の)香水、かぐわしい香りを意味するパオカラニは、その館の名です。自身の子どもはいなかったリリウオカラニ女王。3人の養子を育てながらハワイの行く末を見守り、1917年11月に死去。現在はマウナアラの王家の墓に遺骨が納められています。
アロハオエ。
 
(Text: Masakazu Asanuma / Illust: Shin Takahashi)
(‘Eheu Autumn 2016号掲載)

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