カピオラニ王妃の甥・クヒオ王子

ハワイの道から辿るヒストリー:クヒオ・アベニュー

ビーチに集う人々を迎え入れるように立つ、クヒオ王子の銅像

ハワイが米国の準州になってからも活躍した王族の末裔

王子の名は、ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ・ピイコイ。一般にはクヒオ王子と呼ばれ、その名を冠した通りがワイキキを北西から南東に貫いています。ハワイ語では、「クーヒオー」と、少し伸ばし気味に発音します。
 
クヒオ通りは、ワイキキのビル群の西側、カラーカウア王の銅像がある小さな三角形の公園からダイヤモンドヘッド側の動物園の手前まで続き、カラーカウア通りに平行して、ホテルや商店の立ち並ぶ、市バスを利用する人にも便利な通りです。クヒオの名は、通りばかりでなく、ワイキキのビーチの名としても残され、聖オーガスティン教会前の道を挟んだ海側には、紺碧の海を背景に王子の銅像が建てられています。
 
クヒオは、1810年までカウアイ島を支配していたカウムアリイの曾孫として、カメハメハ5世の時代、1871年(明治4年)にカウアイ島コロアで生まれました。コロアは、リフエ空港からポイプビーチに向かう途中にある町で、ニューイングランドから来島した西欧人が1835年にハワイで初の砂糖農園を作った地域です。王子は、ハワイ王国第7代の王カラーカウアのお后カピオラニの甥にあたり、子どもの時に王妃の養子となり、他の王家の子どもたちと共にロイヤルスクールで英語による教育を受け、プナホウ校でも学んでいます。
 
カラーカウア王は、義理の甥のクヒオ王子を、若くして内務省を管轄する重要なポストに抜擢。しかしカラーカウア時代の後半は、西欧系の人たちが多くを占める砂糖農園主や砂糖の輸出に携わる商人などの経済界の力が王権を揺るがし、米国への併合を主張し始めました。体調を崩し、サンフランシスコのパレスホテルで客死したカラーカウアの後継者として王権を引き継いだ妹のリリウオカラニ女王は、その2年後の1893年1月、米国への併合を求める親米派に屈するように、王権を放棄せざるを得なくなります。クヒオ、21歳の時の出来事でした。
 
ところが、当時の米合衆国第24代大統領クリーブランドは、この王権放棄はハワイの人民の意志によるものではなく、米国公使による内政干渉ではないかとの疑問を呈し、併合を承認しませんでした。そのため、ハワイの親米派は、米国が次の政権に移るまでは併合を待たざるを得ないと判断し、1894年7月4日の米国独立記念日の日を選んでハワイ共和国の誕生を宣言しました。その後、ワシントンでの政治の潮流が変わり、大統領が民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーに代わったことにより、ハワイは米合衆国に併合される運命をたどります。1898年にマッッキンリー大統領が、併合化法案に署名。イオラニ宮殿にてハワイ国旗が降ろされ、星条旗が掲揚され、ハワイは1900年(明治33年)に正式に米国の領土になります。米国とスペインの戦争が勃発し、ハワイの軍事的な有用性が議会でも論議され、これが併合を早める要因にもなりました。
 

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話が前後しますが、1893年にリリウオカラニが王権を放棄した後も、王国の復活を求める動きは続いていました。1895年には一部の人々が蜂起。この蜂起に加わったクヒオ王子も、ハワイ共和国に対する反逆罪で逮捕され、1年近く収監されます。
 
この事件には関わっていなかったとされるリリウオカラニ女王自身も反逆行為に対する隠匿の罪に問われ、イオラニ宮殿に8カ月幽閉されました。
 
その後、政治活動に転じたクヒオは、共和党員としてハワイ準州選出の合衆国下院議員に選出され、祖国ハワイの行く末を米国の首都ワシントンDCから見守ります。ハワイアン・ホームステッド法という、ネイティブハワイアンに少額で土地を貸し与える法律を成立させるなどのハワイアンへの貢献をしますが、1922年(大正11年)、50歳で他界。亡骸はホノルルのダウンタウンの山手マウナアラの王家の墓地に葬られています。
 
王国崩壊による数奇な運命をたどったジョナ・クヒオ・カラニアナオレ・ピイコイ王子の名は、ワイキキの通りやビーチの名ばかりでなく、ダウンタウン近くの連邦庁舎ビル、カハラからハワイカイに向けて東に延びる幹線道路の名としても残されています。3月の誕生日は「クヒオデー」としてハワイ州の休日に指定され、カラーカウア通りでは、ビーチ沿いの銅像の前を通って毎年パレードが行われます。
 
(Text: Masakazu Asanuma / Illust: Shin Takahashi)
(’Eheu Summer 2016年号掲載)

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