ハワイ王国の祖・カメハメハ大王

ハワイの道から辿るヒストリー:カメハメハ・ハイウェイ

イオラニ宮殿の方を向き、ハワイ旧裁判所(アリイオラニ・ハレ)の前に建つ、レイで飾られたカメハメハ大王像

ハワイ8島を統一した賢者

オアフ島に大王の名を冠した道があります。その名はカメハメハ・ハイウェイ。ハイウェイと言っても高速道路ではなく、島の中央部と北部をぐるりと回る一般道路です。その道を時計回りにたどってみると、ホノルル空港の東側から始まり真珠湾の北東部を回り込み、丘陵を登って島の中央ワヒアワの町へ。かつてはパイナップルとサトウキビ畑に囲まれていた道を下ると、島の北西部に砂糖農園が盛んだった頃の古き良き時代の町並みを今に残すハレイワに着きます。北に延びる道はオアフ島最北端のカフクの町を通り、島の北東海岸に沿ってポリネシア文化センターのあるラーイエやクアロア牧場、そしてカネオヘの町を通過して、パリ・ハイウェイに突き当たって終わります。
 
この道の終点に近づくと、屏風のように連なる絶壁が割れて少し低くなっているところが見えてきます。風の吹き上げる峠、ヌウアヌパリ。裏オアフとも呼ばれる島の北東部の光景を鳥瞰図のように見渡せる、オアフ観光には欠かせない景勝地です。カメハメハがハワイ8島を統一していく際に、敵軍をこの断崖に追い詰めて勝利した最後の戦場でもありました。それは、英国海軍のクック船長がハワイ諸島を発見してから17年後、1795年4月の出来事でした。
 
クックが率いる2隻の探検船は、カウアイ島とニイハウ島での補給を済ませた後、北米大陸の北側に太平洋と大西洋を結ぶ水路があるか否かを探査する使命を負い、北半球が夏を迎えている間に米西海岸からアンカレッジ、そして北極圏の北緯70度付近まで北上し、越冬のため11月にハワイに戻ってきます。マウイ島の東海上に到達した時、ハワイ島(ビッグアイランド)とマウイ島最東端のハーナを支配していたアリイ(王)・カラニオープウがクックの船を訪れ、王の甥にあたる若きカメハメハも随行して乗船しています。20歳頃と思われる彼にとって、これが西欧との初めての接点となり、種々興味をいだいたのだと思われます。その後、クックの一行はハワイ島カイルアコナの南、ケアラケクア湾でカラニオープウと再会。この光景は、ホノルルのダウンタウンに立つカメハメハ大王像の台座にも刻まれており、まさにハワイ史における最も重要な出来事の一つであったことが分かります。クックに同行していたバンクーバーがその後、英国海軍の船長としてハワイを3回訪問し、カメハメハは彼から多くのことを学びます。
 
ハワイ島全体を支配するアリイとなり、ハワイ諸島統一への野心を持ったカメハメハは、ハワイ島北西部カワイハエの入江にプウコホラーという名のヘイアウ(祭祀場)を造り、その時を虎視眈々(こしたんたん)と狙い、ついにその時が来ます。
 
オアフ島もその支配下に収めて権力を誇っていたマウイの王・カへキリの死を知ったカメハメハは大軍を率いてマウイ島を制圧。その西に位置するオアフ島に攻め込む多数の双胴カヌーはワイキキからカハラにかけて進攻。ヤシの木が林立する現在ロイヤルハワイアンホテルのあるあたり、ヘルモアに陣を張りました。ワイキキへの進攻の光景は、ハワイの文化と歴史を絵で忠実に表現した故ハーブ・カーネ氏の絵画に描かれています。その絵は今もロイヤルハワイアンホテル1階の宴会場前に飾られていて一見の価値があります。
 
ワイキキのヘルモアに陣を敷いたカメハメハの軍は、プーオヴァエナ(現在のパンチボールの丘)での合戦から、ヌウアヌの峠に向けて大砲も引っ張り上げて、ヌウアヌパリで勝利。ハワイ島からオアフまでをまず統一して王国を創り上げます。その後、オアフ島の西、カウアイ島とニイハウ島までがカメハメハの手中に収まり、ハワイ8島が全て統一されたのは1810年のことでした。
 

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ところで、カメハメハ大王の名を冠した通りが、オアフにはもう一つあります。しかし一般の人々が入れるところではありません。米軍が管理する真珠湾内の島、フォード島に、米海軍の艦船の名を付けた道に混じって、カメハメハ・ループと呼ばれる馬蹄形(ばていけい)の道があります。
 
住宅地から米軍基地、古い町並みのなかを通り、紺碧の海に沿って走り、緑豊かな山々を眺めて、オアフ島の風景を堪能できるカメハメハ・ハイウェイ。レンタカーや市バスを利用して周り、ハワイの歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
 
(Text: Masakazu Asanuma / Illust: Shin Takahashi)
(‘Eheu Winter 2017号掲載)

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